チャペルのひびき

ニーチェとキリスト教

チャペル・アワーでは、山﨑ハコネ先生(共生社会学科准教授)が旧約聖書・詩篇130編を通して、メッセージを語ってくださいました。詩篇の詩人は、切実な思いをもって、深い淵の底から、罪の赦し、罪からの贖いを、祈り求めます。かかる自らの闇を見つめつつなされる真摯な祈りに対する神からの答えとして、山﨑先生は、イエスという方をお示しくださいました。主イエスは、私たちが担いきれないほどの罪をご自身が十字架によって負ってくださった方。罪の報いとしての裁きを代わりに引き受けてくださることにより、新たな命を生きる道を備えてくださる方なのです。引き続いてもたれたアッセンブリ・アワーは、この4月より国際文化学科の教員(哲学がご専門)となられた井西弘樹先生が「ニーチェとキリスト教」とのタイトルのもと、お話しくださいました。「神は死んだ」との言葉が示しているように、ニーチェはキリスト教の批判者として知られています。しかしながら、先生によれば、哲学者をキリスト教の否定に導いたのは、キリスト教によって育まれた誠実さゆえであるとのこと。ニーチェをニーチェたらしめたのは、骨の髄までキリスト教精神を体現するがゆえであるというのです。ニーチェを新たな光のもとで見ることへと導いてくださるその解釈にはまことに新鮮なものがありました。リベラルアーツの学びが可能とすることの一端を先生はお示しくださったように思います。豊かな教養を備えた若き先生をお迎えできたことの幸いを強く覚えることのできたひと時でした。(下田尾 治郎)

Ⅰ.チャペル・アワー 
説教 「慈しみは主のもとに」 准教授 山﨑ハコネ 先生

Ⅱ.アッセンブリ・アワー
講話 新任教員スピーチ「ニーチェとキリスト教」 講師 井西弘樹 先生

<参加学生の感想>
感想1) キリストは、なんとなく知っていた存在と同じか、それ以上に慈悲深い人だったのだなと思った。「罪を犯したことのない人だけが石を投げなさい」と言った話は知っていたが、改めて聞くと簡単にできることではないと思った。ニーチェの「生きる意味」を重要視して探求心がすごいと思ったし、このテーマはすごく難しくて、高校の倫理の初めての授業で「生きる意味」、「人間とは何か」と質問を受けた時、全く答えることができず、すごく難しい問題だなと苦労したのを、今回の井西先生の講話で思い出しました。私はニーチェの考えが好きなので、これからの哲学が楽しみになった。
感想2) 私たちが嘆いたり、深い淵にいる時でも、私たちの祈りを聞いて私たちを許し、慰めてくださるということを聞いて、いつでも神さまは私たちを見ていて、時に励まし、許し、見守ってくれるということを実感しました。井西先生のきっかけとなったローマの信徒への手紙の言葉に私も驚きました。望むことができずに、憎んでいることをしなくてはいけない状況は実際多いので、それが聖書にも書かれていることに驚きました。
感想3) 私たち人間が内面に抱えている辛さや苦しさ、悩みは罪とは無関係ではありません。罪を悔い改めた人に神は目を向けてくださっている、赦しを与えてくださっているということを忘れないように生きていきたいと思います。神さまの愛は正しい者に与えられるものではなく、罪を犯した者が悔い改めようとした時に与えられるものです。神さまは罪人を愛します。どんな時にも祈ることができることに感謝したいと思います。
感想4) ニーチェの問題意識は「生きる意味の探求」であり、その生きる意味をキリスト教が教えてくれたということが分かりました。自分に嘘をつかない、誠実に見つめ続けることをキリスト教は重視しており、ニーチェはキリスト教を否定したけれどキリスト教というものの影響で否定したということが分かりました。キリスト教を学ぶことでいろいろなものが見えてくると話されて、キリスト教を学びながらたくさんの発見をしたいなと思いました。