学長室だより

2005年度卒業式式辞(新井明学長)

式辞を述べる新井学長


 

つい先日は雪に覆われたこの阿賀北の地にも、徐々に春が近づいているのでしょう。今日などは、桜のつぼみも、だいぶ膨らんできました。この日、ここ聖籠町民会館に町長はじめ来賓の皆々さまのご臨席を仰ぎ、こうして117名の若者たちのための、敬和学園大学第12回目の卒業式を催すことができますことを、大変喜ばしく思います。

卒業生の諸君、あなた方は満4年という年月を、敬和学園大学で過ごしました。敬和は都塵を離れて、田んぼの中に立つキリスト教主義の学園です。諸君がここで過ごした4年は、頭のみならず、心と体を鍛えつつ費やされた4年でした。当初感じていたであろう違和感は払拭されたことでしょう。小さな大学なればこそ、他に見られない家庭的雰囲気があり、それに和んで学窓を巣立ってゆく若者たちの姿を、今日は見送ることができる日なのです。

昔の話ですが、「落ち穂ひろい」という話があります。収穫時には、畑に落ちた実まで拾い集めてはならない。落ちた実は、麦であれ、ぶどうであれ、全てやもめ、孤児、在留外国人など、生活の苦しい人々のために取っておけ。それまで徹底的に取り上げるな、というのです。旧約聖書に出てくる戒めです (レビ記19の9-10)。自分に所有物として与えられるものは、その全部が自分のものであるわけではない。それは貸し与えられているものでしかない。体力であれ、知力であれ、資力であれ、それはこの世で貸し与えられているものでしかない。

諸君は19世紀のフランスの画家ミレーを知っていることでしょう。バルビゾン派の画家です。彼に「落ち穂ひろい」というタイトルの作品があります。広い農地の中で3人の女性が腰を折って、落ち穂を拾っている図です。3人は社会の最下層の女性たちですが、たくましそうな姿です。

我々のこの世界には、この世界を世界たらしめている創造主の力が働いています。持てる者たちも、持たざる者たちも、それぞれに支えられて生きている。今は学長としてここに立つ私自身、これまでの人生で、いくつかの岐路に立たされました。その時には、割りの悪い道を選択することを常としてまいりました。より良き道は他に譲ってまいりました。いわば「落ち穂ひろい」の人生を送ってまいりました。しかし「落ち穂」も、場合によっては、たくさん集まることもあるのです。 その時はまた、より弱い方々へお分けしてゆけばいい。

諸君はこれからいわば「落ち穂ひろい」の人生を送るようになるかもしれない。しかし、「落ち穂」を拾いつつ、それに支えられつつ、時に周りを見渡していただきたい。その「落ち穂」をさえ求める他の人々が、そこにいるかもしれない。その時には、それまで集めてきた「落ち穂」を、それを必要とする人々に自発的に分けてあげていただきたい。人に言われてではありません。voluntarily にです。

敬和での4年の年月は諸君を、現在の経済界の効率第一主義の「即戦力」となるべく育ててはきませんでした。「知」、「徳」、「体」の総合的な発育を目指す「全人教育」に集中いたしました。ですから、あなた方は、社会に出て、明日から、直ちに役立つ人的資源とはなっていません。それでいいのです。諸君は与えられる「落ち穂」を広いつつ、ここで受けた人間教育の効果をじわじわと出して、社会にじわじわと根を張ってゆくことでしょう。それが楽しみです。

これまで諸君を支えてきてくださったご両親、またここで出会った恩師たち、事務方の職員たち、また友人たち。これは皆あなた方の貴い財産です。あなた方個人個人は、あなた方を囲む多くの方々への熱い感謝の心を忘れずに、新しい人生へと旅立っていただきたい。  
これが私の送別の辞であります。

2006年3月17日
敬和学園大学長 新井明