学長室だより
2007年度入学式式辞(新井明学長)

式辞を述べる新井学長
この北越の地にも、やっと春が訪れました。暖冬といわれた冬で、新発田城址公園やこの新発田市民文化会館の前庭などで、木々のためにほどこされた雪囲いも、今年は用をなしませんでした。根雪がなかったからでした。その代わりに、例年より早くアセビなどは、赤い芽をつけ、その後を追うようにウメやジンチョウゲのつぼみも緩んできていました。そのような風景を眺めつつ、今年はどんな若者たちに出会えるのかな、と思いつつ、それを楽しみに、今日という日を迎えたのです。今ここで、こうして大事な木々の「若芽」に出会えたのだという思いがするのであります。
あなた方の前には、かくも多数のご来賓の方々が、ご多忙中のお時間をお割きくださり、お揃いくださいました。ありがとう存じます。心からの御礼を申し上げます。また、保護者の皆さまも、多数お出かけでいらっしゃいます。ありがとう存じます。皆さまが私どもと、この貴重な時間を共有してくださいますことを、光栄に思い、心からの感謝を申し上げます。
敬和学園大学はご存じのとおりキリスト教主義を掲げる学園であります。と申しましても、あなた方をキリスト信徒に仕立ててやる、などという傲慢な態度は持ちあわせません。そうではなく、ここにいる4年の間に、人類の共通の古典である「聖書」の教えそのものに、少しでも触れていただき、モノを考える基準にするという姿勢を学んでいただきたいと願うのです。
あなた方は敬和を選んだ。そして我々も、あなた方を選んだ。そして、今の出会いがある。しかしその人間の選択行為の背後に、この世界の創造主なる「神」の意志が働いていると、わたしは考えます。天から「ハレルヤ」の賛美が聞こえてくるようにさえ思われます。「ハレルヤ」とは「主をほめたたえよ!」ということであります。
私の忌み嫌う言葉に「偏差値」という言葉があります。これは人間がつくった物差しであります。物差しというものは、人の備えている価値の隅々まで測ることなど、とてもできません。しかも物差しはその時代の価値基準、その時代にその国が求める価値基準によって変わるものであります。この世に生まれてきた貴い生命の価値まで計ることなど、とてもできません。私の受験時代には、50年も昔のことですが、「進学適正検査」なる統一試験がありました。私の友人でそれに何度も落ちる人がいました。落ちますと、国立大学受験の資格が与えられません。しかし彼はやがてある一流大学の教授になり、その後、カント学者となり、最近は放送大学で何か語っておりました。それがかつて国の設定した統一「進学適正検査」なる試験が通らず、大学受験の資格さえ、なかなか得られなかった男なのです。
あなた方は偏差値的な物差しを嫌う敬和学園に来てくれた。あなた方はここで「知育・徳育・体育」を基本として、まず「人間らしい心を備えた人間になる」教育を受けていただきたい。つまり古典の時代から生きてきた「全人的な」教育を受けていただきたいのです。それを基にして、専門の基礎的な知識を身につけていっていただきたいのです。あなた方一人ひとりは「偏差値」などという物差しを持ってしては、到底計れない大事な価値を持ってこの世に生まれてきています。そのかけがえのない存在価値を大事に思い、それに誇りを持っていただきたい。あなた方一人ひとりが持つその大事な価値を、この小さな学園は教員と職員とが一体となって、引き出し、守り立てる努力をいたします。私どもはあなた方を捨てません。敬和には、いわば家庭的な雰囲気があります。そのことはすぐに、あなた方も保護者の皆さんも、お分かりになることでしょう。
私は、先ほど天からの賛美の声「ハレルヤ」が響いてくるような思いがする、と申しました。本日はあなた方の先輩たち、それからかなりの数の市民の皆さんが、石川美佐子先生の指揮のもと、その「ハレルヤ」コーラスを演奏してくださいます。学生たちと市民の皆さんが一体となって、ひとつ仕事をするという、その姿勢はこの学園のひとつの特徴であります。その姿勢を、これからいろいろと目撃することになると思います。
あなた方の入学を、今大自然も寿いでいるかのようです。花の季節です。木が育つように、あなたがたも育っていっていただきたい。4年間をお健やかに!
これで学長としての私の歓迎の言葉を終えます。
2007年4月4日
敬和学園大学長 新井明






