学長室だより
2008年度入学式式辞(新井明学長)

入学式の様子
阿賀北の一帯も寒い冬でした。しかしその冬を送り、温かい季節を迎えることができました。木々の蕾も膨らみ、ツバキやスイセンも花をつけ、アシビ、モモは満開です。桜も、あと23日のことでしょう。春爛漫の季を迎えようとする今、ここにいわばつぼみのごとき162名の皆さん方を迎えて、こうして入学式を挙行することのできますことは、誠に幸いなことと思っております。皆さんは最終的に、この敬和学園大学を選んだ。そして私と私の同僚が、あなた方を選んだ。しかしその選びの行為の背景に、この天地を造った創造主――神――の意思、摂理が働いていた。そのように信じて、あなた方一人ひとりを、神から預けられた大事な人格として、今お迎えしているのです。
今、「神から預けられた人格」という表現をとりました。あなた方一人ひとりは何か妙な物差しで計れるものではない人格を持っている。個人の価値というものは他人が簡単に計れるものではありません。他人ばかりか、自分でさえも簡単に計れないものを、一人ひとりが授かって、この世に生を受けたのです。個人が生まれ持ってきた価値は、「偏差値」などという冷たい物差しで計りきれるものではありません。
敬和学園大学は大事なあなた方一人ひとりに対して、「心」と、「頭」と、「体」の三面の調和のとれた育ち方を体験していただきたいと思います。それは個人が予想もしていない結果を生むものです。頭脳の、しかもその頭脳の一面に対してのみの評価はその人間の価値そのものを決める尺度にはなりません。そんな尺度で人を決めてかかるなど、人格に対する冒涜です。小利口に、他人を出し抜きつつ走る人生、そんな人生を走り抜くことが、個人に、また社会に真の幸福をもたらすものでしょうか。豊かな「心」と「体」を持たない人間が真に幸せな人生を送ることができるものでしょうか。
敬和学園大学は徳育、知育、体育の三輪の育ちを目指す教育の庭です。キリスト教主義の学園ですから、聖書の学びを基礎にしています。と言いましても、全学生をクリスチャンにさせる、という狙いではありません。人類の古典としての聖書の、その深い思想に触れてもらい、その結果「神を敬い、人を愛する」ことのできる人間になってもらえましたら、と願うものです。「人間らしい心をもった人間」になっていただきたいのです。大学ですから、さまざまな専門領域に足を踏み入れていただきたい。しかし、どの分野にあっても、「神に仕え、人に仕える」という聖書の精神は生きて示されることでしょう。
この学園では、教員と職員がうまく手を取り合って、皆さんを指導いたします。と言いましても、頭の上から何かモノ申すという態度はとりません。皆さんの脇にあって、同じ目線でモノを考え、一緒に育って行きます。そういう学園なのです。これは事実なのです。先月19日の卒業式で卒業していったひとりの学生が、昨年夏「朝日新聞」の取材を受けまして、答えておりました――敬和で「さまざまな経験を積み、大きな人間になりたい。」敬和は「学生、教員、事務の方、掃除のおばさんまで、みんな仲良し!」私はその「掃除のおばさんまで」というところが気に入りまして、その新聞をその「掃除のおばさん」なる方々へ届けました。皆さん、大喜びでした。敬和にはこうした、温かい雰囲気があります。いうなれば、ここは学生を中心にした「愛の共同体」なのです。キリスト教主義の、しかも小さな大学だからこそ、それが可能なのです。学生が育ち、教員も一緒に勉強を重ねてゆく。そういう学園で、皆さんはこれから4年間、自分にしか与えられていない大切な人格、個性を発見し、それを磨いていっていただきたい。それがこれからの人生に大きなプラスをもたらします。
茨木のり子という詩人がおります。 「自分の感受性くらい」という題の短い作品があります。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
・・・・・
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
この詩人、少し口の悪い、怖いおばさんだな、と思うのではありませんか?もう2年ほど前に亡くなりました。この人に『詩のこころを読む』という、ジュニア向けの薄い本があります。詩の世界への優れた入門書ですので、私自身の『英詩鑑賞入門』(1986年)という本の中で推奨して差し上げたことがあります。
本日、午前、新潟職業能力開発短期大学校の入学式に出させていただきました。平塚剛一校長先生――今は、ここにご出席くださっていますが――はおっしゃいました。「感性を高めよ」、それが技術力の向上につながる、と。意義深いお言葉でした。
茨木のりこさんは若者たちに向かって、きみたち個人に与えられている人間としての「わずかに光る尊厳」を、簡単に捨てるな。「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と怒鳴る。愛すればこその叱責です。愛すればこその鞭です。
私も、今言いたいのです。「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊厳」を守っていこう! あなた自身に与えられている「光る尊厳」そのものに、この敬和学園大学で磨きをかけてゆこうではありませんか!
敬和学園大学はそもそも日本基督教団が母体とはなっていますが、新発田市と聖籠町のお招きを受けて、この地に誕生した学園でありますことを、一言申し添えさせていただきます。今日はこれから石川美佐子先生の指揮で、皆さんの先輩たち、また一般市民の方がたが、皆さんの入学を祝して、ヘンデルの「メサイア」の一部「ハレルヤ」を合唱してくださいます。「ハレルヤ」とは、「主をほめたたえよ」という意味です。皆さんの入学を、こうして心から寿いでくれる雰囲気が、この敬和学園と、この新発田にはあるのです。
「光る尊厳」が一人ひとりに与えられているあなた方の、その一人ひとりの成長を祈りつつ、私の式辞を終えさせていただきます。
2008年4月4日
敬和学園大学長 新井明






