学長室だより
2003年度卒業式式辞(新井明学長)

式辞を述べる新井学長
新潟県阿賀野川の北、普通言うところのこの阿賀北の地方にも、やっと春の気配が感ぜられる季節となりました。今日はこの聖籠町町民会館に町長の渡邊廣吉さまをはじめとして、普段敬和学園大学のことを暖かく見守っていてくださる皆さま方のご臨席をいただきまして、第10回の卒業式を執り行うことがゆるされました。真にうれしく思っております。ご父母の皆さまがたのご来場、ありがとう存じます。
敬和学園大学は、こころの教育を大事にする学園です。教育といいますと、大きく分けて知育、徳育、体育と、3分野の教育があるわけですが、そのどの一つも欠かさない、いわば全人的な教育を目指してまいりました。頭でっかちな(いわばロボットのような)人間はつくりたくない。出したくない、のであります。
心の豊かな人間とは、真理に立脚する人間。国家的、社会的、金銭的な権威を振りかざして不正を通そうとする風潮が盛んなるこの世にあって、その種の暴挙を排除するだけの勇気を持つ人間のことであります。それは多くの場合、社会的弱者の側に立つ生き方をする人びとでもあります。
聖書に「真理はあなたがたを自由にする」ということばがあります。また「わたしが道であり、真理であり、いのちである」というイエスのことばが残されております(ヨハネ8・32、14・6)。イエスという人格が真理そのものであり、人々を自由にするものは、そのイエスの教える真理以外にはない、というのであります。真に、心豊かで、真理に立ち、それを実践する人格は、聖書の教えを理解した人々の間に、はじめて実現するものであります。
前学長の北垣宗治先生が昨年3月に学長職を辞される前に、1月でしたか、「私の終わりに私の初めがある」という題でお話をしておいでです。この中で、旧約聖書の「コヘレトのことば」の中から一節を引いてお話をしておられます。「天が下のすべての事に季節があり、すべてのわざに時がある…。愛するに時があり、憎むに時がある」と語られる有名な段落なのですが、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」と続ます。北垣先生は、この箇所を説明なさいまして、人は「時をあがなってくださるキリストに接続させていただくことにより、時にあがなわれるものと確信します」と結んでおられます。初めてお聞きになる方々には、少し面倒かもしれません。この世界は、またこの時間は、神が創造されたものである。だからこの世界、この時間は、またそこに生きることをゆるされた人たるものも、キリストにつながることで、あがなわれる。許される、というのであります。真に自由たる人間は、神のあがないに出会った者の中に誕生するのであります。皆さんは真に自由たる人間として、生き続けていっていただきたい。
昨年10月10日に、現在の1年生の入学記念として、学園のキャンパスに一本のユリノキを植えました。その後、私は心配で、時々見に行っております。1月末にも、またこのお雛祭りの日にも、ちょうど両日とも雪の日でしたが、見に行ってやりました。雪原に立つユリノキは、堅い芽をつけ、春の到来を待っていました。ここで、あなた方卒業してゆく一人ひとりに言う-あなたがたは、「神に仕え、人に仕える」というキリスト教精神を胸に、いかなる厳しい環境にあっても、ここで蓄えた生命の芽をつぶすことなく、自由な人格として生きていっていただきたい。社会的弱者に目を注ぎつつ、生きていっていただきたい。同じ学年で命を落とした若者が2人もいます。その人々の分まで「神に仕え、人に仕える」の人生を生きていっていただきたい。
本年は、石川美佐子先生の指揮で、在学生の代表がヘンデルのオラトリオ「メサイア」のなかの「ハレルヤ」を合唱して、先輩を送り出してくれます。一般の社会人の皆さま方まで参画してくださいますそうで、深く感謝いたしております。「ハレルヤ」とは「主をたたえよ」という意味です。今学園を巣立つ若者たちのためにも、また先に逝ってしまった若者たちのためにも、それを声高らかに歌ってあげていただきたい。この「時」と「所」の中で、死に勝つ「新しい命の歌」を歌おうではありませんか。
2004年3月19日
敬和学園大学長 新井明









