学長室だより
2010年度卒業式式辞(鈴木佳秀学長)

2010年度卒業式での鈴木佳秀学長の式辞
本日の卒業式に臨んだ学生諸君の皆さん、おめでとうございます。この卒業式に出席しているあなたがたのみならず、敬和学園大学に入学した時以来、ずっとこの日を待ち望んでおられたご家族や、保護者の方々に対しても、学長として、お祝いの言葉を述べさせていただきます。
卒業式を迎えたあなたがた、お一人おひとりにとって、この4年間はどのような意味を持っているでしょうか。
授業やサークルなどで、さまざまな経験を積み重ねてこられたことと思いますが、そのすべてが楽しい思い出であったとは限らないでしょう。残念だったと思うことも、あるいはあるのではないでしょうか。しかしながら、それは自然なことだと思います。
もし、すべてが成功した思い出だけで、失敗した経験は全くないということがあるとすれば、それは喜ぶべきことではありません。その人は、それを通して、成長することがなかったと言わざるを得ないからです。
誰ひとり例外なく、人間は、生活の中で、挫折を経験し、思いどおりにならない出来事に遭遇しながら生きているからです。
もし、失敗や挫折を全く経験しないまま、少年から青年に、そして大人になったとすれば、どんな人間になるでしょうか。
その人は、恐らく、過剰な自信に取りつかれ、傍若無人な人になっているでしょう。失敗の経験がないという人がいたとしたら、その人は、自分がやることなすこと、すべて成功するのが当たり前で、何でも自分の思いどおりになっている、そういう経験しかないことになります。
あり得ないことですが、もしそうであるなら、その人は、逆に、誠に不幸だといわなければなりません。
その人は、傷ついている人や、困っている人、不自由をしている人、悲しい思いをしている人の気持ちを、理解できるはずがありません。
自分がそうした経験をしたことがないからです。他者の気持ちを、全く理解できず、分からないまま、どのような人生を歩んでいけるのでしょうか。
その人は、もはや人間としての同情心や、隣にいる人への配慮という考えすら、思い浮かべることができないはずです。
そうした人が幸福でないといえるのは、誰からも受け入れられないからです。
実は、わたしたちは例外なく、失敗や挫折を通して学び、その経験の中で生きるという訓練を受けているのです。
それが人間であり、それがこの世に生きる我々の現実なのです。その点で、人間は全て平等だと言うことができるのです。
幸いなことに、私たちが経験することの全ては、決して悲しいことや失敗だけではありません。
うれしかったことや、思いどおり実現できたこと、達成できた喜びが必ずあったはずです。その数は少ないかも知れません。しかし、それが少ない経験であるがゆえに、逆に、その喜びは大きく、本人にとっては、その経験が尊く、何にも代え難い、貴重なものとなっているのではないでしょうか。
4年間の学びを終えて、無事に卒業式を迎えることができた、というのは偶然ではないのです。あなたがたの努力の結果であり、あなたがたが達成したことなのです。
卒業式を迎えることは、皆さんにとって極めてうれしいことでしょう。わたくしたちも、心からの拍手を送りたい、おめでたいことなのです。
ですから、どんな時にも、どんな場所においても、たとえ失敗したと思えるような時でも、喜びの可能性はまだ先に残されている、と信じていただきたいのです。
拙速に判断を下し、なんだ、結局こんなものか、という風に考えていただきたくないのです。
今年の3月11日に発生した大地震とそれに伴う津波で、未曾有の死者が出たことは、あなたがたにとって、悲しい思い出になることでしょう。災害に巻きこまれ、意図しないで生命を落とされた方々の無念さは、いかばかりでしょう。
それを運が悪かった、あるいは偶然がなせる分かれ道であったと、簡単に言ってのけることはできません。
不慮の災害で天に召された方々のご冥福を祈ると同時に、残された方々のこれからの人生を思わされます。
生命が助かった方々にとって、生命の重さを言いあらわすことは難しいかもしれません。天に召された方々の分まで生きていただきたいと、心から願っています。
今、生きている、いや、生命を与えられて生きていること、その事実の重みを忘れないでいただきたい。今、この卒業式に列席しているあなたがたにも、同じことがあてはまるのです。
どのような苦しい場面に遭遇しても、どうか、独断的に自分の人生はこんなものかと、自分の生涯の幕を安易に閉じないでください。それは、残されているはずである可能性の芽を、自分で摘んでしまい、希望を投げ捨ててしまうことに等しいからです。
また、どうか、自分を低く見積もらないでください。今、生かされているあなたがたの生命は、他に比べることができないほど大切で、重みのあるものなのです。
あなたがた一人ひとりには、無限の可能性が残されていることを、どうか信じていただきたい。
新約聖書のマタイによる福音書5章45節で、イエス・キリストが「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と語られたように、どのような人にも、朝は必ず訪れるものです。苦しみの夜が続くようであっても、必ず夜明けがあるのです。
めげることがあっても、どうか、希望を捨てないように、皆さんに勧めたいのです。
大学を卒業し、社会に旅立とうとしている皆さんに、もうひとつ付け加えて申し上げたいことがあります。
それは、他の大学では味わうことのできない経験で、敬和学園大学だからこそ味わうことができた、あなたがたの4年間についてです。
入学式の時に、当時の新井明学長が話をされたことと思いますが、敬和学園大学は、木を育てるように人を育てる大学だということです。覚えておられますか。
皆さんは、他の大学に通ったことがないので、比較しようにも、比べようがないと言われるかもしれません。
皆さんに接してこられた教職員は、ほとんど例外なく、敬和学園大学とは違う、別の世界を知り、他の世界を経験してこられた方々ばかりです。
実は、他の教育機関の環境と比較すると、敬和学園大学の特徴や個性がよく分かるのです。
木を育てるように人を育てる大学とは、一人ひとりの学生諸君とのコミュニケーションや交わりを大事にし、心の教育を重視することを意味しています。
それが、他の大学には見られない、敬和学園大学の個性であり、最も際立った特徴なのです。
神を敬い、人に仕えるという理念を繰り返し聞かされてきたことと思います。中には、その思想に賛成できない人もいたかもしれません。うんざりして聞いておられた方もいたかもしれません。それは分かっています。無理に信じるように、人に強制する理念ではないからです。
しかし、学長として申し上げたいのは、こうした精神を大切にする雰囲気の中で、あなたがたが、否応なしに過ごした4年間の経験は、あなたがたが予想もしなかったところで生き続け、必ず実を結ぶということです。
なぜなら、あなたがたの魂の中に、あなたがたの精神の中に、小さな種が植えられているからです。
あなたがたは、恐らく気づかなかったかもしれませんが、ルカによる福音書の8章4節以下にある、種蒔きの例えのように、わたくしたちは、精神的で霊的な種を、知らず知らずのうちに、あなたがたの心の中に蒔いてきたからです。
最も貴重な種は、他者への思いやりです。小さな心遣いができること、小さな配慮ができること、それが隣人に仕えることなのですが、この種は、実社会において、その真価を発揮します。
それが、あなたがたの個性として、あなたがたの人間的な強みとして、生きてくるはずです。
これからあなたがたが歩んでいかれる社会の中では、そうした配慮が自然にできるということは、決して当たり前のことではありません。
隣人を愛し、いたわり、配慮するという姿勢は、実は極めて崇高な生き方なのです。
どのような企業でも、どのような仕事場や家庭でも、その種は、大きな実を結ぶはずです。
利益のみを追求するだけの社会では、人間を、ひとつの歯車としてしかみなしません。残念ながら、そうした風潮が一般的です。
事実、そうした風潮が蔓延している現代社会では、他者への思いやりという精神は、現実的には全く役に立たないとみなされ、軽視されているのです。
ですが、実はそうした他者への思いやりこそ、人々は切実に求めているのです。社会が真に必要としているのは、そうした精神であり、そうした精神で訓練を受けた人材なのです。
就職説明会で、企業の担当者は自社の特徴や、業務内容について説明をしてくれたでしょう。では、彼らが、あなたがたに何を尋ねたでしょうか。
あなたがたが、大学の4年間をどのように過ごしてきたかを、知りたがったのではないでしょうか。
企業は、学力のある人材を求めているというのは事実ですが、それは建前なのです。本当に求めているは、人間性豊かな人材なのです。
その人間性とは何を意味しているのでしょうか。端的に言えば、企業の中であれ、グループで仕事をする職場であれ、集団で仕事をする際にチームワークが組めるかどうかに関係しています。チームワークは、一人ひとりの人間性にかかっているからです。
チームワークが組めるかどうかは、仲間への心遣いや配慮ができるかどうかで決まります。
人文科学は、役に立たないことを教えていると公言する科学者や技術者が、かつて大勢いたのは事実です。
21世紀に入り宣言された、科学技術創造立国という我が国のスローガンは、まるできらびやかな衣装をまとっているかのように、将来を約束するものでした。
しかし、その理念が高く掲げられた日本の社会で、創造立国と言える成果を生んだでしょうか。
確かに一部の科学技術は世界の水準を超えるまでになりました。でもその一方で、まるで人間性を無視したような事件が続発したのも事実です。
そうした事件に遭遇した時、心ある人は、我々の国は、何かを忘れてきたのではないか、と思い至ったのです。
心の教育をしてこなかったことに、気がついたのです。
科学技術は大切です。国の柱ですが、もっと大切なものを見失っていたのです。それは、技術を支えるのは人だということです。
特に大切なのは、人が人を愛する心であり、他者への親切や、家族を大切にする心です。当たり前のことが当たり前でなくなっていたのです。
人への心遣いを忘れてしまえば、わたしたちが一緒に生きていく時に必要な、人間としての絆は切断されてしまう、そうしたことに気づいたのではないでしょうか。
技術は、お金を儲けさせることはできても、人の心を買うことはできないのです。技術だけでは、共に生きる社会は実現できないのです。
隣人に仕えるという精神は、必ずや人々の心を動かし、社会の中で、光り輝きはじめるということができます。それは、決して単なるスローガンではありません。
共に生きる社会を形成するのに、なくてはならない精神だからです。
新約聖書マタイによる福音書5章14節と16節に、キリストが語った「あなたがたは世の光である」、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」という言葉があります。
あなたがたの光を輝かしなさいという勧めは、自己主張をして自分の実力や才能を見せびらかしなさいという意味ではありません。
先ほど申し上げたとおり、あなた方の精神や魂に植え付けられた、隣人を愛し、他者に仕える心遣いの種は、やがて芽を出し、自然にあなたがたの心の中で大きく育ちます。
そしてそれが、あなたがたの人格の重要な要素となり、光を放つようになってくるのです。
他者への配慮のある生き方が、次第に周囲を明るくし、職場や家庭を風通しのよい空間に変え、結果として、世の中を明るく照り輝かせることになるのです。
無理をして自分を大きく見せる必要はありません。あなたがたの中に蒔かれた種が、自然にあなたがたの精神、あなたがたの人格を形づくり、世の光となって輝いていくことでしょう。
敬和学園大学での教育、キリスト教主義に基づく教育を受けたあなたがたは、他の大学では味わうことのない、精神的な訓練を受けたのです。
これから皆さんが歩み出そうとする世界は、楽な世界ではありません。それは分かっています。
あなたがたは、苦しい経験をして、時には涙することもあるかもしれません。しかし、そんな時でも、元気を出してください。自分を信じて、一歩前に踏み出してください。
あなたがたの魂に蒔かれた種が、芽吹き、崇高な光を輝かし始める時まで、待っていてください。
最後に、新約聖書の中から、ローマの信徒への手紙5章3節から5節までを引用し、卒業する皆さまへの、送別の言葉といたします。
「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
卒業生の皆さん、おめでとうございます。皆さんの未来に、主なる神の祝福が豊かに臨みますよう、祈ります。
どうか、健康に留意し、与えられた場所で、自分らしい人生を送ってください。
どのような状況にあっても、誰かのために生きる、誰かのために身をささげるという心意気で、力強く、生きてください。
2011年3月18日
敬和学園大学長 鈴木佳秀