学長室だより
2013年度入学式式辞(鈴木佳秀学長)

2013年度入学式での鈴木佳秀学長の式辞
新入学生の皆さん、入学おめでとうございます。ご家族の方々、保護者の方々に対しても、学長としてお祝いの言葉を述べさせていただきます。
敬和学園大学では、「可能性は力になる。」をコンセプト・フレイズに定めています。新入学生の皆さんが持っている、未知の可能性を信じるからなのですが、その可能性は、まだ種として眠っているのです。入学式で歌われた賛美歌234番Aには次のような歌詞があります。
昔主イエスの 蒔きたまいし
いとも小さき 生命のたね、
芽生え育ちて 地のはてまで、
その枝を張る 樹とはなりぬ。
その可能性の種は、高校生活の3年間、たっぷりと水を注がれ、芽生えの時を待っているといえます。その種は、太陽の光を浴びる場所に置かれる時、即ち、自由で規律のある社会に出る時、初めて芽を出すのです。敬和学園大学で過ごす間に、その種が芽生えて成長し、夢の実現に向けた力となることを確信し、定めたものです。
大学での生活を始めることは、社会に旅立つための訓練を受けることを意味しています。大学生活では、規律を重んじた自由があるからです。大学生になると同時に、まさにその自由をどのように活用するかが、皆さんに問われることになります。自由であることには、自己責任が大きく関わっていますので、社会に触れる接点がそこにあるのです。
自由のない世界で、もし規律だけを守るという状況があるとすれば、社会性という観点で言えば、服従という言葉が最も相応しい状況が生まれてしまいます。自由のない服従であれば、皆さんの可能性は力にはなりません。自由がなく、服従だけが求められるような体制を維持している国もあるので、よくお分かりだと思います。自由が保証されている世界であるからこそ、規律が意味を持つのです。
敬和学園大学の聖籠館入り口には、大学での教育を象徴する言葉が、額に入れて掲げられています。次のような言葉がその額には記されています。
「真理はあなたたちを自由にする。」
『ヨハネによる福音書』8章32節にある、イエス・キリストの言葉です。なぜ真理がわれわれを自由にするのでしょうか。この真理を、例えば、神が人間に与えようとされる愛、あるいは神による愛の精神、と言い換えてみましょう。その愛の精神に触れた人間は、自分をまるで神と等しいかのように思い込んで、尊大に振る舞うことはないからです。
ヨハネによる福音書3章16節に次のような言葉があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神の愛が、独り子イエス・キリストをこの世にお与えになったことに、示されているという意味です。「独り子を信じる」ということは、イエスをこの世に遣わされた、その神の愛を信じること、と言い換えることもできます。ですから、神の愛の真理を知った人は、他者の自由を奪い取ることなど決してできない、そのような可能性ですら考えることはできなくなるのです。そのような意味で、神に出会うことは、自分だけが絶対だ、という自己中心主義の縛りから解放されるのです。
世の中にある常識や建前、ある偏った考え方や特定のイデオロギー、それが擬似的な意味で偶像となっていると、つまりそうしたものを間違えてまるで「神」であるかのように絶対的だ、とみなしてしまうと、人間はそれに従わなければならなくなり、自由でなくなるのです。
絶対的な基準に従わない者は、社会的に排除され、いじめを受けることがありますし、非常識だと社会から排斥されてしまうことも、しばしばあります。お分かりだと思いますが、そうしたことが、現実の社会にはあるのです。
敬和学園大学に入学された皆さんは、『真理はあなたたちを自由にする』という理念のもとで、リベラルアーツに基づく教育を受けることになります。敬和学園大学で、リベラルアーツ教育が実現されるのは、規律を尊重しながら、自由の意味について学び、またその意義を経験できるからですが、何よりも偶像ではなく真理を知ることが求められています。それは教養教育とも言われていますが、リベラルアーツに基づく教育で、最も大切なのは、従って、人を愛する心、人を思いやる心です。
神を愛し、隣人を愛するというのが、敬和学園の理念です。
新入学生の皆さんは、一年次に基礎演習を受講することになります。その基礎演習のハンドブックの扉に、美しい祈りの言葉が記されています。手にされたなら、ぜひ、声に出して読んでいただきたいと思います。それはアッシジのフランシスの祈りで、『平和の祈り』と呼ばれています。
新たにローマ法王に選出された方が、名をフランシスⅠ世、後にフランシスコと訂正されましたが、質素な生活を重んじ、貧しい人々に手を差し伸べるよう、語っています。『平和の祈り』に込められているのと同じ精神を重んじ、アッシジの聖フランシスコの名を継承し、フランシスコと名乗ったのでしょう。その祈りは、次のような言葉で始まっています。
主よ、私を平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いのあるところに赦しを
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を
誤りがあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところに喜びを
もたらす種をまかせてください。
ああ主よ、
慰められるよりも、慰めるものに、
理解されるよりも、理解するものに、
愛されるよりも、
愛するものにしてください。
それは、私たちが自ら与えることにより
受け、
赦すことによって赦され、
自分の体をささげて死ぬことによって
永遠の生命(とこしえのいのち)を、
得ることができるからです。
敬和学園大学のリベラルアーツ教育とは、自由な精神のもとに、いわばこのような心、自己犠牲と他者への献身の心を育てる教育なのです。入学される皆さんの、これからの日々に、一体、どのような出会いが待っているのでしょうか。皆さんが真理との出会いを経験され、本来の意味での自由を知ることを、心から願っております。敬和学園大学で、充実した日々が送れるように願い、イエス・キリストの名において、皆さんを歓迎します。
2013年4月4日
敬和学園大学長 鈴木佳秀