学長室だより
2010年度入学式式辞(鈴木佳秀学長)

2010年度入学式での鈴木佳秀学長の式辞
皆さん、ご入学おめでとうございます。入学された学生諸君とご家族の方々、保護者の方々に対し、学長として式辞を述べさせていただきます。
これから皆さんと一緒に、私共、教職員も、まだ見えざる4年間という未来に向けて、共に旅立つことになります。
大学に入学したこの時に、自分の人生が軌道に乗ったと考えるのは、時期尚早です。中には、有名大学に合格したことで、人生の目標の半分は達成できたと考える学生が大勢いることは、残念ながら事実のようです。毎年春に、報道を通して繰り広げられる、某大学合格者数の高校ランキングの公表は、勘違いを助長しているだけです。
確かに、有名大学に合格したことで、長い受験競争を勝ち抜いたと自負する学生は多いのかもしれません。おめでたいことかもしれませんが、しかしそれは、何も保証していないとしか、言いようがありません。
たとえ、希望する大学に晴れて合格できたとしても、スタートラインに並んだだけで、その大学の名前が、その人のその後の人生を揺るぎなく確立することにはならないからです。
入学した大学にプライドを持つことは大切ですが、しかし、その人の人生に、あまり大きな力を持ちえないことを理解しないといけません。かえって不必要な自尊心や、偏ったプライドを持つために、人間形成の妨げになる場合もあるからです。
敬和学園大学は、名前だけにブランドを感じさせるようなことを目指している大学ではありません。この大学が最も大切にしているのは、あなたがたの心だからです。心の教育という姿勢にこそ、ブランドを確立させたいのです。
敬和学園大学は、新発田市・聖籠町に建学された時からはっきりとした理念を持って出発しています。その理念を受け継ぎながら、今年、20周年目の記念の年を迎えます。その記念の年に、あなたがたは入学されました。
建学の精神は、キリスト教主義に基づく、リベラルアーツ教育を行うというものです。
このリベラルアーツ教育には、共生という言葉を中心に、キリスト教主義、国際主義、地域主義という三本の柱が理念として掲げられています。その中で、最も重要なのが、キリスト教主義に基づく教育です。
キリスト教主義の大学をミッションスクールという言い方がなされますが、ミッションとはキリスト教の宣教という意味です。しかし敬和学園大学は修道院ではありませんし、神学校でもありません。まして信徒を養成する機関でもありません。
わたくしたちが目指しているのは、人が生きていく上で、見逃してはならない大切なこと、他者に対する配慮や細かな心遣いを中心にものを考えるという生き方です。それを共生、共に生きるという言葉で言い表しています。それを理念として標榜しているのです。
本学がキリスト教主義を標榜する大学であることは、聖書が語っている、神と隣人を愛するという精神を、人格形成の重要な基礎としているからです。わたくしたちは、それを内外に向けて語り、実際に教育の現場で実践してきています。
多数の学生を抱える、いわゆる専門学部での教育は、そうした心の教育まで、手が回りません。本人の問題だとして、切り捨ててしまうのが普通です。
でもこの敬和学園大学では、他の大学があまり重要視していない、心の実質的な訓練を重んじています。ボランティア活動に従事する動機づけを持てるように、積極的に働きかけていますし、インターンシップやキャリアアップのための訓練の場では、常に共生を目指して何ができるかを一緒に考える教育を行っています。
それには理由があります。4年後に皆さんは大学を巣立ち、実社会に出ていくときが訪れるでしょう。皆さんを求めている社会は、誰でもいいから若い人を求めているのではありません。企業や事業体の担当者は、はっきりとある特定の人材を求めています。
彼らの声に耳を傾けると、現代の大学教育を否定するかのような声があることに、驚かされます。まず、専門学部での知識教育に期待していないこと、第2に、あいさつもろくにできない人間の採用を考えていないと公言していること、第3に、道徳的な常識がない人材は採りたくないという企業や団体が多いことです。現在では、彼らは出身大学名で採用を決めていません。
これら企業人の言葉に静かに耳を傾けてみると、リベラルアーツ教育が掲げている理念がいかに大切で、人間形成に重要であるかが見えてきます。特に、他者に対する配慮ができる人材、細かな心遣いのできる人材を、彼らは求めているからです。
日本の教育で忘れられていることかもしれませんが、誰かのために、ごくわずかでも時間を割いて、労力を惜しまずに手助けを申し出ること、そうした生き方は日ごろの生活の中で培われるものです。
いわゆる文字を媒介にした教育だけでは、こうした精神は生まれにくいのです。共生とは、経験の学びだからです。
敬和学園大学では、そうした学びの場、経験の場を提供しています。教室の授業だけで、教育が完成されるのではありません。
また本学の教職員は、そのことを強く自覚しています。入学される学生諸君の、人との出会い、友人や教師との出会いや触れ合いを生かせるように、最大限の努力を惜しまないつもりでいます。本学では、教育の現場やサークル活動、さまざまなイベントを通じて、誰かのために自分が役に立つのだという経験を、皆さんに味わっていただきたいからです。
昨年来、日本はリーマンショックと言われる、突然の不景気に見舞われ、多くの派遣社員が会社を追われたことをご記憶でしょう。このような厳しい状況の中でも、本学の2009年度卒業生の就職内定率は92.4パーセントを記録しました。全国の大学での平均を大きく上回りました。
その理由がどこにあるのかを、入学される学生諸君にも、またご家族の方々にも、お考えいただきたいのです。
何かのために生きることよりも、誰かのために生きるということを学生諸君に勧めておりますが、キリスト教主義の精神からいえば、それが、隣人への愛であり、ひいてはそれが、そうした愛を喜び、受け容れ給う、神への愛につながるのです。
新約聖書の中から、イエスが語られた言葉を引用し、皆さんに紹介したいと思います。
マタイによる福音書7章13節から14節
狭い門から入りなさい。亡びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
ここでの狭い、広いは、物理的なことを言っているのではありません。精神的な、そして何よりも生き方に重きを置いている言葉です。
敬和学園大学では、学生諸君に自律した人間として社会に巣立っていただくため、他の大学にはない「狭い門」や「狭い道」を用意しています。それが、共生を学びつつ、他者への配慮という経験を身につける、という教育なのです。
キリスト教主義に基づくリベラルアーツ教育の道は、細い道なのです。大学という教育機関で、それぞれの教員が自分の専門だけを教えていれば務まるというのは、教える側にとっては広い道なのです。
リベラルアーツ教育は、必ずしも純粋な狭い専門だけを教える場ではないのです。学生諸君と共に学ぶという経験は、研究者にとっては、当たり前ではないからです。教員は、研究者でありつつ、学生諸君と共生の経験を共有できるような、心の教師になることを本学では求められているからです。
なぜ、狭い道なのでしょう。この出会いの現場で求められているのが、人間としての出会いだからです。放っておけば自然に誰かと出会うと考える人もいるかもしれません。しかし、何の準備もなしに、意味のある出会いは実現しません。
真理を求めるという姿勢が、双方に求められるからです。共生という理念が実現できるのは、自分の側に、心の準備がある場合にのみ可能だからです。
これからの4年間を、どのように生活し、どのように学んでいくかが、皆さんのその後の人生の土台を築くことになります。出会いを大切に、またいたわりの心や、配慮、細かな心遣いができる学生諸君は、既に準備ができています。数々の意味深い出会いが与えられるはずです。
まだ準備ができていないと感じる学生諸君にも、有り余るほどのチャンスが用意されています。
学長として若い諸君に期待するのは、狭い門をくぐり、細い道を歩こうとする、勇気と決断です。その姿勢があれば、実り豊かな学生生活を送れるはずです。
一人ひとりに、神の導きが豊かに実を結ぶように祈りつつ、式辞とさせていただきます。
2010年4月3日
敬和学園大学長 鈴木佳秀