チャペルのひびき

教養としての歴史学

アッセンブリ・アワーは、キリスト教教育主事として毎回のチャペル・アッセンブリ・アワーをお支えくださっておられる和田献太郎先生がご担当くださいました。ご講話のタイトルは「教養としての歴史学」。大学院において近代日本史を修められ、敬和学園高校にて社会科を長らく教えておられた先生だからこそ、お語りになることのできる深い内容のお話でした。先生は、リベラルアーツとの関わりにおいてもお話しくださいましたが、リベラルアーツ(教養)の目的とは、「人は何のために生きるのか」という根源的な問いに向き合うことのできる人間を養うことであり、そのための多様な価値判断の尺度を提供するところにある。歴史学は、その材料を提供するにあたって裾野の広い学問であることを先生は教えてくださいました。リベラルアーツを掲げる大学で学ぶ意義を再確認することのできた方もきっと多かったことでしょう。この時間に先立つチャペル・アワーにおいては、ヨハネ福音書をとおして、神の愛の深さについて学びました。自分のとがめを棚に上げて、人の罪を数えながら生きてしまう私たち。しかし、人の罪が自分のそれよりも大きく見える時、私たちは神の前に立っておらず(藤木正三)、そのことは、神の赦しの愛を受け損ねてしまうことでもあります。人は過ちを犯しながら歩んでしまうものです。けれども、その過ちの深さをとおして、そこににじみとおる神の愛の深さを(また人の優しさ、温かさを)も知ることもできるのです。聖書はそのことを教えてくれる書物です。(下田尾 治郎)

Ⅰ.チャペル・アワー 
説教 「いっそう満ち溢れる恵み」 宗教部長 下田尾治郎 先生

Ⅱ.アッセンブリ・アワー
講話 「教養としての歴史学」 キリスト教教育主事 和田献太郎 先生

<参加学生の感想>
感想1) アッセンブリ・アワーでのお話を受け、教養を得て視野を広げることの重要性を感じました。専門知識だけでは生きていけないという言葉が印象的でしたが、実際に大学で心理学や哲学などを学んだことで、日ごろ、相手の言動に対して嫌な思いをした際に「こういう考え方をする人もいる」「もしかしたら自分が考えすぎなのかもしれない」といった考え方ができるようになり、気持ちが楽になりました。また、本日のチャペル・アワーでは下田尾先生から「時に私たちは自分の罪を棚にあげて他人の罪を批判することがある」というお話がありましたが、この科目で聞く言葉は自分の考え方を見つめ直すきっかけになっていると感じることがあります。私は大学入学までキリスト教の考え方に触れる機会はありませんでしたが、大学で学んだことで今までの自分にはなかったような考え方でものごとを捉えることができるようになったため、これが教養を獲得することの意味なのだと感じました。
感想2) 今回は、チャペル・アワーとアッセンブリ・アワー、それぞれのお話がつながっていることを改めて感じた。人間が今まで「罪」をたくさん犯してきたことを、私たちは歴史から学んできた。私は、今まで犯してきた罪を、まずは認め、その過ちがあった原因を分析することが大切であると考える。そして、原因が分かったら、二度とそのようなことはしない、という強い意志を持つことが重要であるということを、今回のお話を聴いて強く感じた。そのために、「過ちをしないための歴史の学び方」も大切だと考える。歴史の試験の解答が年数と名称の羅列になってしまうようでは、そのことが起こるまでの流れを本当に理解しているのか分からない。私たちが歴史を学ぶときには、「断片」ではなく「流れ」で理解することが鉄則であると再認識した。