学長室だより

2003年10月24日号

まえに勤めていた日本女子大学の英文学科から、大学の(英文学科の)創立百年を記念して、「小史」をつくりたいので、「成瀬仁蔵と英文学科の創設」なる文章を書いてくれ、との依頼があった。先年末のことである。定年後、まる3年ちかくにもなる旧教員に、しかも卒業生でもない男子の旧教員への依頼として、これは少しおかしいのではないか、と思い、お断りすべきだと決意し、係りの教授に電話を入れた。しかし、それが、かえっていけなかった。苦汁の言に接して、押し戻された。成瀬仁蔵(1858-1919)は日本女子大学の創立者なのだが、それより15年ほどまえの1886年(明治19年)には新潟にいて、新潟教会を立て、キリスト教式の新潟女学校や北越学館(内村鑑三がいちじ教頭を勤めた男子校。)を始めた人物である。当時は若き正教師であった。ここ新発田にも伝道に来ている。1890年にはアメリカ留学をはたす。かれの滞米中に、上記2校は、日本国内の反動化の波をくって、閉校となる。1968年の敬和学園高校の設立にあたっては、閉校を余儀なくされたこの2校に繋がる方がたの心が働いたと聞いている。「成瀬仁蔵と英文学科の創立」という小文を書きながら、わたしがこの新発田に連れてこられるにいたるまでの、因縁の糸を感じないわけにはいかなかった。(新井 明)