学長室だより
2005年10月14日号
ぜひ訪ねたいと願っていた所のひとつに、大河津分水 (おおこうづぶんすい) があった。新発田を出て、日本海沿いに寺泊(てらどまり)の町に入り、分水路に沿って、東へ約10キロ。新発田からは90キロに近い道のりである。分水地点に立って、分水路の幅の広さに驚く。700メートルを上回る広さなのだという。(狭いところでも、300メートルほど。)
蒲原平野を大水害から守ろうとする企ては、すでに18世紀の半ば(享保年間)にあったが、工費の巨大さと各地方の利害関係の問題があり、実際には着工されなかった。1868年(明治1)の大洪水を契機にして、開削に着工したが、それも止め。国営事業として1909年(明治42)に開始された工事は1922年(大正11)に完成したが、すぐに一部が陥没した。本格的な補修工事は、その後、1931年(昭6)に最終的な完成をみた。新潟土木出張所長に抜擢されたのは青山士(あきら)であった。パナマ運河、荒川放水路工事の経験があった。工事竣工記念碑には「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」と刻まれている。彼は内村鑑三の弟子であった。(新井 明)