学長室だより

12人の怒れる男たち

先週の「学長室だより」を読まれた先生が、「敬和学園大学の卒業生が頼もしく感じられた」と感想を寄せてくださり、企業にお勤めのご友人の話として、企画書等の作成もAIに頼りきっている若手社員は自分で考えていないため、会議や取引先でまったく動けないのだそうだと教えてくださいました。AIに使われないで使う側に立つには、一定の知識や判断力、スキルが必要なのだと思います。授業で、殺人罪に問われた少年が有罪か無罪かを評決するアメリカの陪審員たちのせめぎ合いを描いた『12人の怒れる男たち』を読みました。2009年に裁判員制度が始まった時に、本学が新発田にお招きした東京藝術座の公演が忘れられません。
先日受講生に陪審員たちの生い立ちや家族構成、仕事やこの陪審の今後の人生への影響などを自由に創作してもらいました。学生たちの深い人間洞察がうかがわれておもしろかったです。映画を見に行くために長引く陪審を終わらせたくて自分の評決を安易に変えた登場人物に関しては、「責任を深く引き受けることを避け、日常を軽やかに生きようとするタイプ」で、「『立ち止まって考える時間』を意識的に避けてきた人物」であるとの分析や、「上辺だけの人間関係を築くのが得意で・・・これまでの人生の大きな場面でもその場しのぎで選択肢を選んできた」など、ドキッとするような洞察がありました。どんなに論理的に証言の不合理性を証明してみせても人は時として感情的に受け入れられないものだという人間理解、そしてこの人物の「変わりきれなさにこそ、この作品のリアリティがある」という作品評価もありました。日系イギリス人ノーベル賞作家は、「小説は心情を伝える」ものだといいます。ならば文学作品こそ感情をもたないAIでなく、自分の頭と感性で論じてくれることを期待します。アメリカの児童図書館員が、ある批評家の言葉を引いて、「読者が読書にかけるエネルギーやその善良な意思は報いられなければならない」という言葉を残していますが、最近はAIで小説を書いたりもするのですよね。「AIにはAIを」となり、キツネとタヌキの化かし合いにならぬようにと願います。(金山 愛子)

本学に東京芸術座をお招きした時の写真(2009年)12人の怒れる男たち