学長室だより

導かれた決断

人生にはこんなことがあるのか。戸惑いもありましたので左近先生に相談に行きました。手紙を読み、何が何でもクレアモントに行かなければ駄目だと言われるのです。奨学金を手に入れることがアメリカ合衆国ではどんなに難しく、困難なことかを力説されたのです。はいと返事をしましたが、確信に満ちた答えになっていませんでした。渡航費や生活費をどうするか、何の用意もなかったからです。クレアモントで学位を取得された新約聖書学の先生にお目にかかり、このような手紙を受け取りましたと報告しました。手紙には授業料だけでなく、スタイペントも一年間支給すると書かれてありました。この意味がよく分からなかったのです。先生は椅子から飛び上がりました。スタイペントとは生活費のことで、十分すぎるほどの金額だったのです。何も知らないということは、恐ろしいことだと思いました。留学が義務に変わった瞬間でした。入学許可書を手に、アメリカ大使館に出向いてビザの申請を始めました。
あることを思い出しました。母校の畏友で、秦剛平と一緒にイスラエル大使館に出向いて留学申請をした時のことです。ヨセフス研究を目指していた彼と二人で、イスラエルに留学しようと語り合い、大使館に向かったのです。大学紛争が混乱の中に終わった頃でした。
門前払いでした。1972年5月に発生したテロ事件の影響でした。パレスチナのテロリストに協力した日本赤軍の学生が、テルアビブ郊外のロッド国際空港で機関銃を乱射し、多数の市民を殺害する事件が発生したのです。その岡本公三事件の数ヶ月後でした。これでは駄目だ、と諦めたのは言うまでもありません。(鈴木 佳秀)