学長室だより

「賞を得るために走る(フィリピ3:12-14)」(2018.2.2 C.A.H.)

「私は既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために目標を目指してひたすら走ることです。」

20180202チャペル・アッセンブリ・アワー1

 

ピョンチャンオリンピックが来週から始まります。今日は多くの学生たちがさまざまな分野で活躍したことを讃えて、年度内表彰がチャペル・アワーの後のアッセンブリ・アワーで行われます。そこで今日は、パウロの言葉からアスリートの比喩を通して、いかに生きるかを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

パウロはここではアスリートの比喩を用いて語ります。現代オリンピックは古代ギリシアの4年に1度ギリシアの都市国家間で行われていたオリンピックを復活させたものです。古代オリンピックは紀元前776年から紀元後393年まで、1168年間292回開催されました。ギリシアの三都市ではオリンピックが開催されるオリンピック・イヤーとその中間の年も含めて2年に一度、地方の競技会が開催されていました。

パウロが第二次宣教旅行で滞在したコリントでも、2年に一度、コリント郊外でイストミア競技会が開催されていました。パウロは紀元51年前後の1年半コリントに滞在していましたので、51年に開催されたイストミア競技会を経験した確率は極めて高いです。ランナーや(フィリピ3:12-14, Ⅰコリント9:24-26a)やボクサーの比喩は(Ⅰコリント9;26b)実際にこのようなアスリートを見たり聞いたりしたからではないでしょうか。

パウロは第一に、「既に得たというわけではなく」「完全な者になっているわけでもない」とはっきり断言します。それとは反対に「何とかして捕えたい」と「追い求めている」(直訳)と述べています。何を「捕え」「得る」のかというと「キリストに捕えられているように」「キリストを捕える」ことです。「キリストを捕えた」と言えるのは将来です。しかし、現在は「キリストを既に捕えたとは思っていません」とパウロは現在の状態を繰り返して述べます。パウロはキリストに捕えられたキリスト者ですが、今でも求道者の心境でいるのです。

次にランナーの比喩を用いて「なすべきことは、ただ一つ」とランナーは「ゴールのみ」を目指して走ることを強調します。「後ろのものを忘れ」とは「スタート地点を忘れて」走ることを指します、これは「過去」の比喩です。過去のことは忘れて捉われないのです。「前のもの」とは「ゴール」を指します。これは「将来」の比喩です。自分が定めた「将来の目標」に向かって「必死になって走る」すなわち「生きる」のです。

そのためには、自分の意志と意欲によって将来のヴィジョンをはっきりと描いていく必要があります。こういう人になりたい、こういう仕事をしたい、こういう生き方をしたい、という明確なヴィジョンを描いて、自分の描いた将来に向かって必死になって生きていくのです。過去から現在を生きるのではなく、将来のヴィジョンを描いてその目標から現在を生きるのです。そして「賞を得るように走る」のです。現代のオリンピックでは金・銀・銅メダルが与えられますが、古代のオリンピックでは一位のみに月桂樹の冠が与えられました。パウロはそのような人間的な名誉を求めるのではなく、神に喜ばれる栄誉を求めて生きるように促します。

このパウロのランナーの比喩は、時間とは何かを説明したアウグスティヌスの有名な時間論(『告白』第11巻)に影響を与えたと思われます。時間には「過去」と「現在」と「将来」という三つの相があることはよく知られています。アウグスティヌスは時間の三つの相を次のように説明しました。すなわち、「過去」は自分の「記憶」の中にあり、「現在」は自分の「意識」の中にあり、「将来」は自分の「意欲」の中にある。ここで重要なのは将来に対して「こういう人になりたい」「こういう生き方をしたい」「こういう仕事をしたい」という「ヴィジョン」と「意欲」を持つことです。自分の「過去」に捉われて「現在」の自分を見るのではなく、「将来」の自分の「目標」「ヴィジョン」を目指して「現在」の自分を捕える人間を「プロジェクト型人間」と言います。「賞を得るために走る」とは「プロジェクト型」人間のモットーとも言えます。私たちもパウロやアウグスティヌスの言葉に促されて、「プロジェクト型人間」になるように心がけましょう。祈りましょう。(山田 耕太)