学長室だより
主が家を建てるのでなければ(2016.4.9. 新発田朝祷会)
家を建てる人の労苦は空しい。
主御自身が守ってくださるのでなければ
町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜遅く休み
焦慮してパンを食べる人よ
それはむなしいことではないか
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。(詩篇127:1-2)
詩篇120編から134編までの15の詩篇は「都へのぼる歌」と題され、過越祭(除酵祭)・七週祭・仮庵祭の「年に三度」(出エジプト記23:14-17, 34:18-24, レビ記23:4-43, 申命記16:1-16)エルサレムの神殿を巡礼する時に歌った詩篇です。前半と後半では違う内容が歌われています。前半では主が家や町を守ることを歌い、それと関連して後半では子孫の繁栄が祝福であることを歌っています。
1節前半の「家を建てる」は「ソロモンによる」巡礼歌からエルサレム神殿を直接的には指しますが、後半の子孫の繁栄と関連して一般的な「家」を建てることも指します。そこには、家の建築ばかりでなく、家を営む維持・管理までも含まれます。ここから献堂式などでもこの聖書箇所が用いられます。
「労苦はむなしい」は、家を建てるのは目に見える人間の手による業であるが、そこに目に見えない神の働きがなければ、その業は「むなしく労苦したことになる」と言います。
1節後半では「家を建てる」者の「労苦のむなしさ」と並行して「町を守る夜回り」に目に見えない神の働きがなければ「目覚めていることのむなしさ」が歌われます。
これらの「むなしさ」は「しかし、私は顧みた、この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれもむなしく、風を追うようなものであった」(コヘレトの言葉2:11)に通じます。だが、コヘレトは紆余曲折の末に知り尽くせない神の働きを認め「神を畏れることが知恵のはじめ」(コヘレトの言葉3:14,5:6, 7:18, 8:12, 12:13)を再認識します。
またそれは「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が労苦しても何も加えることができない」(箴言10:22)という「ソロモンの格言集」(箴言10:1)の知恵の言葉にも通じます。主の祝福があって人間の手の業の「労苦は報われる」のです。
2節では「朝早く」から「夜遅く」まで働いて、苦労して「パンを得る」と「労苦」が列挙され、神の祝福がなければ「むなしいことではないか」と反問します。
それとは反対に「主を愛する人」に象徴されるように、神の祝福は生きとし生けるもののすべての存在に伴い、「眠りが与えられ」る間にも伴い、「労苦は報われる」のです。
神の祝福は、我々がどこにいようとも「天に登ろうとも」「陰府に身を横たえようとも」「曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも」(詩篇139:7-10)そこにあり、神が私たちを根底から支え「神我らと共にいます」(インマヌエル)限り、神の祝福があるのです。
敬和学園大学の学生寮が神の愛と希望に溢れ、神の祝福に溢れた寮となり、そこで暮らす学生たちの生活と生涯が神の祝福に溢れたものとなり、それを支える寮スタッフならびに関係者一同が天来の祝福に溢れたものとなりますように祈りましょう。(山田 耕太)