学長室だより

「よいサマリア人(ルカ7:25-37)」(2021.6.25 C.A.H.)

皆さんおはようございます。新潟県も梅雨に入りました。遠くの山々は晴れだとその上に大きな入道雲が立ち上がり、雨だと山全体が雨雲に覆われます。授業も後ひと月で新入生も次第に大学生活に慣れてきたころでしょう。

今日の聖書か所は、イエスの最も有名な譬え話の一つ「よいサマリア人の譬え」です。イエスは民衆に分かりやすく話すために「譬え話」を用いて語りました。この物語は前半と後半に分かれます。前半は「律法学者」というユダヤ教の「律法」すなわち「モーセ五書」に記された古代ユダヤ法の専門家とイエスの問答です。後半で「よいサマリア人」の譬え話が語られます。この譬え話で私たちがいかに生きるのかという大切な指針が示されています。

前半ではユダヤ教の専門家とイエスの間で2回問答が繰り返されるエピソードが語られます。この問答の中で重要な人物の大切な思想、すなわちここではイエスの重要な思想が示されます。このように重要な人物の思想や生き方を簡単な問答のエピソードで示すという文学方法は、古代ギリシア人が「クレイア(逸話)」と呼んだ手法です。前半では二重の問答が繰り返されますので「二重クレイア」という手法を用いて表現しています。

律法の専門家は「イエスを試そうとして」イエスを陥れようとする悪意をもって質問します。「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」すなわち「どうしたら神の国に入れるか。どうしたらこの世の生活から解放され救われるか」と問います。イエスはこの質問の裏にある悪意を見抜いて質問には答えずに逆に質問します。「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるか」と律法学者の解釈を問います。これが最初の問答です。

律法学者は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主である神を愛しなさい」すなわち「全身全霊で神を愛せよ」と第1に神への愛で答え、続いて「隣人を自分のように愛しなさい」と第2に隣人愛で答えたのです。この神への愛と隣人愛はイエスが十戒を愛の精神で解釈したイエスの教えそのものだったのです。律法学者はイエスの教えをよく知っていたのです。イエスはこの答えを聞いて「正しい答えだ。あなたも行って生きよ」(直訳)と答えます。これが第2の問答。

イエスに「正しい答えだ」と言われた律法学者は「正しい人」「正義の人」と自認して、今度は逆にイエスに「隣人とは誰か」と問いただします。当時のユダヤ人はモーセの教えを第一にして、「隣人とは同じユダヤ人」で「隣近所に住む人」を想定していました。そこでイエスが「よいサマリア人の譬」を語ります。ここから本論です。

イエスは譬え話で3人の人を登場させます。最初に祭司、次にレビ人、3番目にサマリア人。祭司はエルサレム神殿に仕える宗教家で、ユダヤ人社会の最上層のエリートです。レビ人も神殿で祭司に仕えるエリート層です。サマリア人とはユダヤ人社会から疎外されて、ユダヤ人から汚れ多いと嫌われていた最下層の人々でした。

ある旅人がエルサレムからエリコに向かって旅をしていました。エルサレムは標高800mの山の頂にある町です。その東側は荒れ野と呼ばれる砂漠地帯が続きます。私もイギリス大学院生の時に一人旅でそこを通ったことがあります。「月のクレーターか」と思いました。エリコは隊商キャラバンのオアシスの町です。その道の途中で旅人は追いはぎたちに襲われ、持ち物や服も取られ、殴られて半殺しの状態になってしまいました。

たまたま祭司が通り、続いてレビ人も通り、見て見ないふりをして反対側を通り過ぎます。3番目にサマリア人が旅人を見て「憐れに思い」(直訳「五臓六腑(内臓)が痛む(片腹痛む)。イエスが奇跡を起こす動機の言葉、マルコ1:41)、相手の立場に立ってどう行動するかという「深いシンパシー」から自分の持てるもので旅人を介抱し、近くの宿屋で2人分の宿代を払うばかりでなく、宿屋の主人に帰りがけに不足分も払うとまで言います。
 
最後にイエスは律法学者に「3人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人となったか」と問います(隣人であるかではなく、隣人となることが重要)。律法学者が「サマリア人です」と答えると「行って、あなたも同じようにしなさい」すなわち「あなたも行って生きよ」と行動することを促します。知識も大切ですが、それ以上に大切なのは知識に基づいて行動することです。祈りましょう。(山田 耕太)