学長室だより

「神を敬い、人に仕える」(2022. 1. 21 C.A.H.)

 

今年度の最後の授業日となりました。今年もチャペル・アッセンブリ・アワーでさまざまなお話を聞いて考えさせられたり、視野を広げたりしてきたと思います。この後でエッセイ・コンテストの授賞式があります。皆さんが書いた数多くのエッセイを読みましたが、皆さんがどのように感じてどのように考えたかが手に取るように分かりました。

大学生活の4年間は現在の日本人の平均寿命で考えると、これから平均で約70年間生きる人生の土台を作る大切な時期であることを最初に自覚してください。幸せな人生を送るか否かは、ある意味ではどのような学生生活を送ったかにかかっています。今回はただいま読んでいただいたマルコ福音書10章35~45節から、これからの人生を「いかに生きるのか」「何を心掛けたらよいのか」という生きる方針について考えてみたいと思います。

「ヤコブとヨハネの願い」と題されたエピソードは、前半(35~40節)と後半(41~45節)に分かれます。前半は12弟子の中でも中心的な4人の中のヤコブとヨハネの兄弟の願いから始まります。「栄光をお受けになる時」(神の国を支配する時)「一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」(37節)という願いでした。最近の研究から明らかになったのは、イエスは「12弟子と共にイスラエルを裁く」ことを「神の国」のイメージとして描いていたのです(ルカ22:28 30)。

それに対してイエスは「あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない」と否定し「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」と逆に問いただします(38節)。ここで「杯」「洗礼」という言葉は文字どおり最後の晩餐をかたどった「聖餐式(ミサ)」と呼ばれる儀式で飲む「杯」やキリスト教の入門式である「洗礼」を指すのではなく、それぞれ「苦い杯」「炎の洗礼」である「苦難」(マルコ14:36)や「死」(ルカ12:50)を暗示する比喩なのです。イエスの問いに対して「できます」と答えると、イエスは弟子たちが自分と同じような苦難の死を経験することは認めますが(39節)、イエスの左右に座ることは自分が決めることではないと言います(40節)。

この問答を聞いていた他の10人の弟子がヤコブとヨハネの兄弟に対して腹を立てるところ(41節)から後半の本論に入ります。イエスは「エルサレム途上の道」(9章後半から10章)の最初と最後で「弟子たることとは何か」「弟子とは誰か」を語ります。すなわち「すべての人に仕える人」(9:35)「どんな人に対してもサービスする人」(10:43-44)について語ります。

イエスは最初に弟子とは正反対のイメージを語ります。すなわち、当時のイスラエルばかりでなく世界を支配していたローマ皇帝を例に挙げて語ります。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々(ローマ皇帝たち、現代の大統領や首相に相当する)が民を支配し、権力を握っている。」(42節)

「しかしあなたがたの間ではそうではない」(43節前半)とイエスに従う弟子たちはそれとは正反対であると断言します。それではどのようなイメージなのでしょうか。第1に「あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になりなさい」(43節後半)。「仕える者」は、直訳するとレストランなどで食事を運ぶ「給仕する人」に由来する「サービスする人」です。第2に「一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(44節)。「僕」と訳されている言葉は直訳すると「奴隷」という言葉になります。ローマの皇帝とは正反対の言葉です。すなわち「すべての人に仕える者」(9:36)です。キリストはすべての人に「仕える者」となるようにと教えただけでなく、十字架上の死で全人類に対する罪の身代わりとなったのです(45節)。

今の時代は第一次産業(農業・林業・漁業)ばかりでなく、第二次産業(製造業)に従事する人も減少しています。そして、人が人に対するサービス、医療・介護・福祉・教育ばかりでなく、旅行業・飲食業・宿泊業をはじめとして音楽・美術・スポーツを含めてあらゆる形での対人ケアのサービス産業がより重要になっています。そこでは「すべての人に仕える者」となりながら、トップダウンではなくボトムアップのリーダーシップが重要です。

キリスト教は一言でいえば奉仕の精神があふれた宗教です。本学の学長は代々ロータリークラブに属しています。ロータリークラブは1905年にポール・ハリスが3人のキリスト者青年と始めた国際的奉仕団体です。日本では1920年に米山梅吉という青山学院と関係の深いキリスト者が始めました。日本ではロータリークラブとキリスト教の関係は薄れていますが、全国のロータリークラブやそこから分かれたライオンズクラブの奉仕の精神が日本の社会を健全にしていると感じます。

敬和学園大学の校歌は「神を敬い、人に仕える」から始まります。これは十戒の精神を愛の精神で解釈して「神への愛」と「隣人への愛」にまとめたイエスの精神に由来するものです。校歌では「隣人への愛」を具体的にはルターの「キリスト者の自由」の精神に立ち返って「隣人に仕える人」と解釈して表現しているのです。皆さんも地域社会でのボランティア活動やアクティブラーニング、すなわちサービスラーニングにいそしんで「人に仕える者」となっていってください。祈りましょう。(山田 耕太)