チャペルのひびき
私の目の中であなたは高価で尊い
チャペル・アッセンブリ・アワーでは、山﨑ハコネ先生(共生社会学科准教授)が、『新約聖書』の「ルカによる福音書」の15章に記されているイエス・キリストの姿、また主イエスの語られた有名な例え話をもとにお話しくださりました。人目をはばからず罪びとや徴税人たちと交わり、食事を共にする主イエスに対して、神の前の清さと正しさを自負するファリサイ派の人々や律法学者たちは、厳しい眼差しを向けます。けれども、主イエスは、彼らに「99匹と一匹の羊」の例え話を用いながら、罪びとたちや負い目を感じながら生きている人々もまた、神さまの眼差しの中では「高価で尊い」ことを告げてゆきます。神さまにとって、この世界の中で誰一人としてどうでもよい存在などないことを。一人ひとりの人間は、神さまご自身が創造し、この世界の中に命を与えてくださった、神さまにとって、また世界にとってもスペシャルな存在。このことを告知するために、主イエスはこの世界に来てくださったのです。この喜ばしきメッセージを、『たいせつなきみ』というすてきな絵本、またご自身にとって大切な方のエピソードをご紹介くださりながら、ハコネ先生は伝えてくださいました。私たち一人ひとりに、この神さまの優しい眼差しは注がれています。そして、この眼差しの優しく肯定的な光は、時に世間(人々)から(また私たち自身からも)向けられる厳しく否定的な眼差しのただ中にあっても、決して奪われることはありません。この眼差しのもとで、私たちは、何度、打倒され、くずおれてしまっても、再度、立ち上がり、歩み直してゆくことがゆるされるのです。この幸いを心に刻みたいと思います。(下田尾 治郎)
Ⅰ.チャペル・アッセンブリ・アワー
説教 「あなたを探し歩く神」 准教授 山﨑ハコネ 先生
<参加学生の感想>
感想1) 今日は「あなたを探し歩く神」というテーマでお話ししていただきました。聖書の中の話から、神さまは一人ひとりを神さま自身のものとして探し、見守ってくださっている、尊い存在だと思ってくださっているということが分かりました。徴税人や罪人と食事を共にするイエスを見て、ファリサイ派の人々や律法学者はなぜ一緒にご飯を食べているのかと思っていました。ファリサイ派の人々や律法学者は正しい人ですが、イエスの招きに応じなかったところから探されている1匹の羊のようではないのかと言われました。『たいせつなきみ』という本の話もありました。自信がないパンチネロが作ってくれた人に「そのままでいい」という言葉をかけられているという部分が印象に残りました。無条件に受け入れてくれる存在が必要という言葉がとても心に響きました。あるがままに受け入れてくれる人や存在に感謝して生きていきたいです。
感想2) 見失った羊、なくした銅貨、家を出た放蕩息子、どれも初めて聞きました。見失った羊の話では、99匹の羊たちを残して、いなくなった1匹の羊を探しに出る。普通なら多い数の方を優先するのではないだろうかと思い、このお話はその逆だったので、多くの数をとるのではなく、一つひとつを大切にしているというのがとてもすてきだと思いました。私は大勢の人が同じ意見を言う中、自分だけが違ったとしてもそれは自分の意思、意見なので合わせなくてもいいのかなと強く感じました。そして、私自身も他の人、一人ひとり違うものなのだと頭においておきたいと思いました。一人ひとりyour special、あなたは大切な人だ、私はあなたを愛している、一人ひとりが尊い、という言葉もすてきだなと思いました。
感想3) 今日の山﨑ハコネ先生のお話を聞いて自分と違う人を受け入れるイエス様の懐の深さに驚いた。誰でも自分と違う考え方や習慣を持つ人を疎ましく思ったことがあると思う。しかしイエスさまはご自分を非難したファリサイ派の人々や律法学者たちを排斥しようとはせず受け入れたのだから、その懐の深さには感服する。もし、自分の立場ならばそのように思想で対立する人間をそう簡単に許容することはできないからだ。自分を自分のまま無条件で受け入れてくれる人はほとんどいない。友達や家族にさえ本当の姿を見せることができない人もいる。その苦しみの中でそのまま自分でいいと言ってくれる存在は喜ばしいものだ。私は完璧な人ではないから自分とは違う人間のすべてを受け入れることはできない。しかし、異なる存在に恐れや迫害の気持ちを持って接するのではなく少しでも相手のことを知り、歩み寄れる人になりたいと思う。
感想4) 私たちが日々生きる中で、例えば神の意図に反した行いをしてしまった、罪を犯してしまったとする。私たちは自己中心的な行動をしてしまい、もはや死を待つしかないのではと思ったりする。けれども神はそんな自分勝手に行動する羊のような私たちを自分のものとして辛抱強く待ち、見守り続けてくださる。神は創造主として私たちを無条件に愛し、受け入れてくださるということがよく分かり心が温かくなった。100匹の羊のうちの1匹を探して、見つけ出したら盛大に喜んで、といった具合に自分の存在を尊いてくださるのは本当につらく苦しいときに心の支えになってくれるよりどころが生まれるのですてきなことだと思う。そして自分が正しいと信じてやまない者もまた群れからはぐれた羊であると知りハッとした。神を求めた結果の自身への固執、過信こそが救いへの道を遠ざけてしまっているというのは悲しいことである。過信せず自身を神に委ね、信頼することが大切なのだと学んだ。
感想5) 今日の授業を受けて、罪人や徴税人がイエスさまの話しを聞こうとして近寄ったところにファリサイ派の人々や律法学者たちが批判することについてイエスさまが説き伏せたところにすごみを感じました。中でも、罪人や徴税人を100匹の中からはぐれた1匹に例え、ファリサイ派の人々や律法学者たちを残りの99匹に例えた話がよいと思いました。山﨑先生の話しの中でもあった「たいせつなきみ」という本の内容を聞いて、今回の聖書の内容と似ていると思いました。周りからダメ印を押されたパンチネロが自らを作った彫刻家のエリに「この手で作ったお前は大事な物なんだよ」と言われたところがイエスさまが徴税人や罪人を受け入れたところと似ていると思いました。また、この本を制作した人物は牧師なのでキリスト教の教えもこの本に反映されていると思いました。今日の話から、どんな人でも自分を無条件で受け入れてくれる人が必要だと思いました。自分もどんな人でも無条件で受け入れることができるような人になりたいと思いました。
感想6) 今日のお話は愛がテーマで、日々激動する社会を生きる私どもにとって重要なお話だと思いました。イエスさまは罪人や微税人などの社会的地位の低い人々やイエスさまの恩を拒んだ人々などすべての人に対して、平等に愛を注ぎ、忍耐強く待ってくださっていることに感謝や感動の気持ちを感じました。AI化が劇的に進み、オンライン上で会話や授業、仕事、買い物などが簡単にできるようになり、生活がより快適になりました。一方で個々の時間の増加に伴い、人と人との直接的な関係が減少し、孤立化の問題も浮き彫りになってきたと思います。現代の日本社会から孤立していると感じている方はたくさんいらっしゃると思います。しかし、自分は社会から避けられている存在で、必要のない存在だと思うのではなく、イエスさまが幾度でも自分を愛し、自分を探し続け、待ってくださっていることを忘れてはいけないと思います。そして、イエスさまや誰かからの愛を感じた際には、自分が苦しい時やつらい時励ましてもらい、愛してもらえたように、今度は自分が誰かのために愛を注ぎ、勇気づけることが大切だと思います。お互いに相手を思う温かい言葉をかけ、思いやりのある行動をし、愛し合うことで生きることに喜びや幸せを感じると思いました。
感想7) 高校のスクールカウンセラーの先生の言葉を思い出しました。山﨑ハコネ先生のお話を聴き始めてすぐ、99匹もの羊を残して1匹の羊を追いかけるのかという疑問を持ちました。他の羊飼いに預けても、99匹の羊を見捨てたことに変わりはないと思います。ここで「1か100かではない。90や80も選べる」というスクールカウンセラーの先生の言葉を思い出しました。結局、自分の中で一番よいと考えてとった行動ならそれでいいという結論に達しました。「自分の中で一番よいと考えてとった行動」はスクールカウンセラーの先生が述べられていた「自分の考えを表現すること」と似ています。自分で考えることとそれを行動に移すことは重要だということです。重要とは、楽しく、意義があるという意味です。私は、行動して生まれる結果の良しあしではなく、行動して生まれた結果に後悔しなければそれでいいです。
感想8) ルカによる福音書でイエスさまが例え話で、見失った羊の話をしていた。100匹の羊がいたが、1匹いなくなってしまった。99匹になってしまい1匹を見つけ出すまで探しに行くという話。僕はこの話の意図がよく分かりませんでした。イエスさまは1匹1匹の羊を大切だと思っている。1匹の羊をかけがえのないものだと神さまは言う。「たいせつなきみ」という物語は、パンチネロとエリというキャラクターが出てきます。エリはパンチネロのことをとても大切に思っています。パンチネロは失敗を繰り返しダメな人形というシールをつけられ、他の人形にからかわれていた。人形をつくったエリは「お前は私が作ったから大切なんだ」と言われ傷ついた心が癒された。自分には自信がない、価値がないと思う人が多いけれど、それを認めてあげる人が1人でもいれば救われるのかと思いました。
感想9) 聖書の罪がある人が改めることは、改める必要のない正しい人についてよりも大きな喜びがあるということを聞いて、悪いことをしたからと見捨てるのではなく、その悔いを改められるようにサポートしようと思った。悪人と呼ばれる人たちにも、彼らなりの考えや、大事にしている物があると思う。なので、何も知らないまますぐに非難するのではなく、その人のことを理解し、受け入れることが大切だと思う。 「たいせつなきみ」の話を聞いて、自分はだれにも必要とされていなく、駄目な人間だと思っていても、どこかに必ず自分の存在を大事にしてくれる人がいるということが分かった。人間には無条件に愛してくれる人が必要なので、愛情をもって人と接しようと思った。神は大勢ではなく、1人の存在をかけがえのない、尊い存在だと思って助けてくれる存在だというお話を聞いて、私も周りの友達や家族、一人ひとりを大事にして、困っているときに助けられる存在になりたいと思った。