学長室だより

2007年6月22日号

象潟(きさかた)を訪れる機会は、これまで何回かあった。新発田に来る以前のことである。なぜか、と問われれば、それは芭蕉なのだ。「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」。(1689年の夏、芭蕉46歳。)新発田には合歓(ねぶ)の木は少ない。しかし、ないわけではない。数すくないその合歓の枝が、花をつけるころになると、とくに毎日のようにその枝を見にゆく。
芭蕉は象潟のあと、温海(あつみ)、鼠ヶ関を経て、越後の中村(現在の山北町北中)に泊まる。その後は「蒲陶」(ぶどう峠)を通り、村上に来ている。つまり現在の国道7号線である。瀬波、乙宝寺(おっぽうじ)を経て、「つゐ地村」に至り、泊まる。「つゐ地村」からは新潟まで便船があった。芭蕉じしんはなにも書き残していないのだが、同道した曾良の日記でわかる。これまで温海、鼠ヶ関、北中などへは行っているが、「つゐ地」は、どこか分らなかった。
それは中条の築地のことと分って、最近その浜へ行ってみた。ちょうど海に陽が真っ赤に沈む時間であった。(新井 明)