学長室だより

イニシエーションとしての入学式

2009年4月3日、聖籠町町民会館で厳かな入学式が挙行された。入学するひとりひとりの名前が呼ばれ、計175名の入学者を大学に受け入れるとの宣言がなされた。宗教学者は、このような式典、入学式や成人式などを通過儀礼(イニシエーション)と呼ぶならわしがあり、儀式としての役割が強調されるのが普通である。例えば成人式の場合、通過儀礼に参与するということの意味は明確なのである。限られた有資格者のみがまず参加資格者として集められる。他の共同体構成員が見守る中、彼ら全員が共同体主催の同じ儀礼的な式典に与る。こうしてそれに与った者のみが、入会を認められ、正式に共同体の一員になるのである。
入学式の式典が帯びているこの象徴的、祝祭的な意義は、イニシエーションに与る行為なのである。かつてこの種の式典が形式主義であるとして排斥された時代があった。入学式だけでなく、卒業式が進歩的(?)学生たちによって粉砕された時代がそうである。当時は、結婚式すら時代遅れと見なされたのである。だが、式典が帯びている意義は、時代の雰囲気だけで消滅することはない。入学式は、大学という共同体に加わる新入生にひとつの大きな区切りを与え、精神的な自立を促すからである。
敬和学園大学は、こうした意義を踏まえつつ、自分を知る、世界を知る人づくりの大学として、新入学者を厳かな気持ちで受け入れたのである。(鈴木 佳秀)