学長室だより

「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者(エフェソ書3:16-17)」(2021. 7. 4. 日本基督教団中条教会 創立140周年記念説教)

皆さん、おはようございます。中条教会創立140周年おめでとうございます。実は昨年に140周年記念礼拝を行う予定でしたが、コロナ禍で一年遅れて今日となりました。敬和学園大学の体育館は、パーム宣教師の活動を記念してパーム館と名づけられています。パーム館の入口に入るとパーム宣教師がご家族と一緒に写っている写真が掲げられています。それは中条教会の写真を複製させていただいたものです。改めて心から感謝を申し上げます。今朝は創立140周年より数年前からのパームを中心にした中条教会の前史をお話しさせていただきます。

39年前の今ごろのことです。私は英国北部のダラム大学大学院修士課程学生で博士課程に転換できるか未定でした。転換できない場合、勉強ばかりして何も見ないできたので、列車で2、3時間のエディンバラだけは見ておこうと決めました。親しい老婦人のホワイトさんに相談すると、エディンバラ医療宣教会に泊まれるように手配してくださいました。家内と二人の幼子と一緒にエディンバラ医療宣教会にゲストとして2泊しました。夕食は食堂で寄宿舎の医学部学生たち約15人と一緒に食べました。寮長はアメリカ人の神学部の院生夫妻でした。19世紀に世界各地に派遣された800人の宣教師の写真が食堂の壁一面に貼ってありました。今は宣教師を派遣していないことも知りました。私は31年前に新潟に来て初めてパームとエディンバラ医療宣教会の働きを知りました。

中条教会の生みの親であるセオバルド・エイドリアン・パームは、1848年にスリランカのコロンボで宣教師の子として生まれました。1873年にエディンバラ大学医学部を卒業し、エディンバラ医療宣教会で訓練を受けて1874年2月にメアリーと結婚し、3月に船で旅立ち、5月に日本に到着し、築地で日本語の訓練を受けました。そこで宣教師がいない最も困難な土地の新潟を宣教地に選びました。しかし、新潟に向かう直前の1875年1月にメアリーは出産しますが、3日後にメアリーが亡くなり、12日後には赤子も亡くなりました。メアリーは夫から自分の命が間もないことを告げられると料理人の水谷宗五郎と哲子夫妻を呼んで「主人はとても悲しんでいますから、親切にしてあげてください」と日本語で言い、通訳の陶山昶を呼んで「聖書をただの本として読まないでください。それは神の言葉だということを覚えておいてください。私は言葉を覚え次第、人々にキリストのことを教えたいと思っていたとどうか皆に伝えてください」という臨終の言葉を残して逝きました。この見事な最期に立ち会った水谷宗五郎・哲子と陶山昶は深く感銘を受けキリスト者となりパームの宣教協力者となりました。

パームは水谷夫妻らと新潟に入る最も困難な雪道の三国峠越えで、1875(明治8年)年4月15日に新潟に着きました。早速パームは病院を開設して医療宣教を開始しました。やがて、横浜から押川方義が派遣されて強力な助っ人になりました。パームは最初の2年間はもっぱら新潟市を中心に活動しました。外科手術で評判がよく、最先端の医療を施すパーム病院に大勢の人が来るようになりました。パームは新潟で医療宣教を始めた2年目後半から出張宣教を始めます。そのきっかけとなったのが中条でした。パームが中条に最初に来たのは、1877(明治10年)年1月2日でした。その前年の秋にパーム自身が病気で数週間寝込んでいた最中に中条から患者さんがやって来て手当することができなかった人がいました。その人が悪化していると聞いて、雪の多い正月休みの2、3日を用いて片道40kmの道のりを舟と徒歩と人力車でやってきたのです。それから中条・村上・新発田に、やがては10か所近くで毎月定期的に医療宣教に出かけるようになりました。中条では元肴屋権三郎の旅館(元肴屋旅館は現存)が宣教地でした。宣教地では主に蘭学医が受け皿となりました。中条では6人の医師がパームの医療宣教を支援しました。

パームが中条で医療宣教を始めた2年目の1878(明治11年)年には大きなできごとが3つありました。第1に3月に小菅喜蔵が最初の信者として洗礼を受け、その後長い間中心的な信徒として活躍していきます。第2に、吉田亀太郎は東京・築地の化学研究所に勤めていました(研究所は築地居留地のカロザース宣教師宅に隣接し、讃美歌などが聞こえてくる距離にあった)が、中条・築地に石油開発のために派遣されていました。吉田は次第に噂を聞いて元肴屋旅館での押川方義の演説や説教に魅了されて、11月に洗礼を受け、押川方義と共にパームの強力な伝道者となっていきました。第3に12月ころに、パームは元肴屋旅館では手狭なので本町通り三番町40番地(元第四銀行中条支店の駐車場の所)に中条講義所(教会堂)を自分の費用で開設しました。当時15円でした。

中条で宣教を始めた3年目の1879(明治12年)年1月にはパームは函館の宣教師の娘イザベラ・メアリー・ニコラスと再婚し、新潟で娘のアグネスが生まれました(写真に写っている三人)。ところが8月始めに新潟港からコレラが流行して、中条でもコレラがまん延し、8月22日にはパームがコレラをもたらしたというデマ情報に惑わされた数百人の群衆がツルハシや鎌をもって教会堂を打ち壊し始め、警察官が出動して鎮圧するという事件が起きました。その後、教会堂の修復作業が行われました。

 

パームが中条で宣教を始めた4年目の1880(明治13年)年7月11日に中条教会が教会規則を定めて教会設立式を行いました。新潟県のプロテスタント教会では、東中通教会や新潟教会よりも早く最初に教会を設立したことになります。今年はそこから数えて141年目になります。同じ年の8月6日夜に新潟大火が起き、新潟の中心部古町が焼け野原となり、パーム病院も焼けてしまい、西大畑に新たに病院を再建しました。新潟が復興するのに10年はかかると見た押川方義と吉田亀太郎らは、吉田亀太郎の実家のある石巻や仙台に拠点を移して、東北地方を「日本のスコットランドに」という合言葉でパームの支援を受けて宮城県・山形県・福島県に諸教会を立て、仙台に仙台神学校(現在の東北学院)と宮城女学校(現在の宮城学院)を建てていきました。そのころから中条では10歳の高橋寅松少年が教会学校に出席し始めて、後に中条教会の中心的な役割を果たす人となっていきました。

中条教会の141年の歴史の前史をかいつまんで見てきましたが、その中での重要な点は、パーム宣教師が宣教の最も困難な地である新潟を選んだこと、そこで医療宣教を始めるにあたり、また展開していく中で遭遇したさまざまな予期しない困難や苦難に直面しつつも、さまざまな支援者や協力者の力を得ながら、あきらめずに宣教を推し進めていった点です。そこには不屈なスコットランド人魂があるばかりでなく、冒頭で読んでいただいたエフェソ書の「執り成しの祈りの精神」(3:14-19)に満ち溢れていたように感じます。すなわち「どうか御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つものとしてくださるように」(3:16-17)という祈りの精神です。「キリストの愛に根ざし、キリストの愛にしっかりと立つ者」とは、教会の指導者ばかりでなく、「キリストの体」を構成する教会員の一人ひとりが自覚すべきことです。その要点は「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(3:17)という「内住のキリスト」が「御父(神)が、その霊により力をもってあなたがたの内なる人を強めて」(3:16)と神の霊の力によって強められていく点にあります。そうすると神の愛の計り知れないほどの大きさに次第に目が開かされていくことになります(3:18-19)。

その後に続く中条教会の141年の歴史の前半の70年は、新発田教会の歴史とも深くかかわる伝道者たちが派遣された時代と無牧の時代が長く続きます。それは小菅喜蔵とその後を継ぐ高橋寅松あるいは彼らを継ぐ人々を中心にした信徒がしっかりと立つ時代でもありました。141年の後半の70年は、前半とは対照的に備前竹子先生と高橋稔先生そして金子智先生がしっかりと立つ時代でもありました。そこで忘れてはならないのは今年創立81年となる中条聖心幼稚園(聖心こども園)の働きです。教会と幼稚園(こども園)の長年の働きは胎内市の中でも重要な役割を果たしてきました。今後共教会とこども園が地域社会の中で欠くことができない重要な働きを続けていくことができますように、神が「私たちの内なる人を強めてくださり、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」としてくださいますように祈ります。神さまの祝福がお一人おひとりの上に、またそれぞれのご家庭の上に、溢れるばかり豊かにありますように祈ります。(山田 耕太)