学長室だより
「神を敬い、人に仕える (建学の精神の深化)」(2022.5.24 敬和学園理事会・評議員会)
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい。」(マルコ10:42-43)
マルコによる福音書では9章前半のイエスの変貌物語から11章のエルサレム入城までのガリラヤからエルサレムに向かう旅の途上で、イエスが12弟子と問答を繰り返して、弟子の弟子たることは何かを明らかにしています。エルサレムに向かう旅の最初の「一番偉い者問答」では弟子の中で「一番偉い者は誰か」と弟子たちが議論している中で、イエスは「一番先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい」と語ります(9:35)。その後10章では、結婚について、子供について、金銭について、弟子の心構えを語ります。エルサレムに向かう旅の最後の「ヤコブとヨハネの願い問答」でも、イエスが神の国で王座に着く時にはその左右に座らせてくださいという無茶な願いに対して、もう一度「あなたがたの中で偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい」(10:42)と繰り返します。
ここで「仕える者」と訳されている「ディアコノス」の元来の意味は食卓に食事を運ぶ「給仕する人」です。「僕」と訳されている「ドゥーロス」の元来の意味は「奴隷」です。すなわち、弟子の弟子たることとはローマ帝国の皇帝のように政治力や軍事力を背景にした権力によって支配する人とは正反対で、「給仕する人」のようになって「皆に仕える人」、「奴隷」のようになって「すべての人に仕える人」であることを明らかにしたのです。これが「サーバント・リーダーシップ」の意味です。
このイエスの精神に基づいてルターは宗教改革の代表作『キリスト者の自由』で、一見すると矛盾するようにも見える2つの命題を提出しました。すなわち、「キリスト者はすべての上に立つ自由な君主のようで何者にも従属しない」「キリスト者はすべての者に仕える僕のようですべての者に従属する」ルターは「霊」なる「内なる人」と「肉」なる「外なる人」というパウロとアウグスティヌスの人間論を用いて2つの命題が矛盾しないことを明らかにしました。すなわち、キリスト教の精神は、神の愛により内面的な自由を得て、隣人愛によりその自由を人に仕えることにある点を明らかにしました。
今から54年前に敬和学園高校が開設された時に、太田俊雄初代校長はキリスト教精神の「神の愛」と「隣人愛」を日本的な文脈で「神を敬い」「人と和する」と解釈して「敬和」と命名しました。大学は今から12年前の大学創立20周年の時に、もう一度イエスとルターの精神に立ち返って、21世紀の時代にさまざまな形のヒューマンサービスがますます求められることも視野に入れて、「神を敬い」「人と和する」ではなく「人に仕える」と解釈し直して、「人と和する」の内容を明確にしました。また、このように解釈し直したキリスト教精神が具体的なイメージとして定着していくために、大学創立20周年事業として敬和学園大学校歌を作りました。校歌の1番と2番の冒頭は「神を敬い、人に仕える」という言葉から始まります。敬和学園の学生教職員関係者一同が、ますますキリスト教精神に溢れ、神にも人にも地域にも、さらに喜ばれるようになることを心からお祈りいたします。(山田 耕太)