学長室だより

「光の祭り」

点灯式で小説教をする山田学長

点灯式で小説教をする山田学長

 

クリスマスツリー点灯式

クリスマスは光の祭りです。クリスマスが光の祭りであることを象徴するように、クリスマスツリーのてっぺんにはイエスの誕生を祝いに東の国から星に導かれてきた博士を象徴する星が輝いています。またクリスマスツリーにはさまざまな色の電球が飾られてクリスマスツリーが暗闇の中に輝くようになります。

クリスマスの4週間前の「アドヴェント」(待降節)という時期になると、教会の講壇の脇では4本のロウソクが立てられ、また天井からも4本のロウソクがつるされます。アドヴェントの最初の日曜日には1本のロウソクが灯され、次の週には2本、3週間目には3本、そしてクリスマス直前の日曜日には4本目のロウソクが灯されて、キリストの誕生を迎える心の準備をしていきます。そして、クリスマス・イブにはロウソクの火を灯して礼拝をささげるキャンドルサービスがささげられます。

クリスマスが「光の祭り」であることは、ヨハネ福音書1章1-18節の「キリスト讃歌」である「ロゴス讃歌」に端的に表されています。

   「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
   万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。
   言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
   光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1-5)

「初めに言があった」の「初めに」は創世記1章1節の「初めに、神は天と地を創造された」と同じ「初めに」を用いて、天地創造について述べています。ここでは「初めに言があった」と語られています。この「言」(ことば)とは何でしょうか。日常使う「言葉」とは違うことが分かるように、「言」という漢字一文字で「ことば」というルビが振ってあります。ここでは「ロゴス」というギリシア語を「言」(ことば)と表現しているのです。この「ロゴス」とは「言葉」の元にある「理屈」の「理」、「理解」の「理」、「理由」の「理」すなわち大和言葉で表現する「ことわり」という意味がその根底にあります。しかし、ここでは実は天地創造以前の天上の世界のキリストを指しているのです。

すなわち天地創造以前に「言」すなわち、「ロゴス」である「キリスト」は「神と共にあった」のです。この「共に」という言葉はギリシア語では「プロス」という前置詞が用いられています。直訳すると「向かい合って」という言葉になります。神と「ロゴス」である「キリスト」は天地創造以前に天上の世界で「向かい合って」いたのです。すなわち、神とキリストは互いに対話する関係にあったのです。そのような関係の中で「ロゴス」である「キリスト」は「万物」すなわち世界に存在する生きとし生けるものすべての源を創造したのです。

「言(ことば)の内に命があった」すなわち、万物を創造して、すべての生きとし生けるものの命の源となったのです。私たち人間の中で生まれようと思って生まれてきた人は一人もいません。また人間はいつか死ぬのですが、それがいつなのかは誰も知りません。私たちは自分で生きていると思っていますが、実は私たち人間は他の生きとし生けるものと同じように、自分の命の始まりも終わりも知らないのです。自分で生きているというのは思い違いで、本当は大いなる命の源である神によって生かされているのです。与えられている命、生きることを許されていることを覚えて、命を与えられている限り、自分の命も他人の命も大切にして生きていきましょう。

「命は人間を照らす光であった」しかし多くの人はそのようなことを知らずに、まるであたかも暗闇の中に生きているかのように心は暗くなっています。そのような中に暗闇に光を照らすように、万物の命の源であるキリストが地上にやってきたのです。しかし、「暗闇は光を理解しなかった」とあるように、「光」であり「命の源」であるキリストが地上にやってきても、多くの人々はキリストの到来を知らず、またキリストを受け入れることをしなかったのです。私たちは闇のほうに顔を向けるのではなく、光の方に顔を向けて、キリストの誕生を祝って、心の中に光を灯して幸いな人生を歩んでいきましょう。祈りましょう。(山田 耕太)