学長室だより

「光は闇の中で輝いている(ヨハネ1:1-5、14)」(2022.12.23 C.A.H.)


 
皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日は大雪のために、ローソクに火を灯して行うキャンドルサービスができなくなり、オンラインでのクリスマス燭火礼拝となりました。昨年は強風のために、今年は大雪のために、恒例のキャンドルサービスができなくて大変残念です。

クリスマスは光の祭りです。キャンドルサービスでローソクが灯されるばかりでなく、クリスマス直前4週間のアドヴェントに入ると、クリスマスツリーが点灯されます。大学の校舎の前庭と中庭の2本のクリスマスツリーは、毎夜夜空に鮮やかに輝いています。

マタイ福音書2章のイエスの誕生物語では、東方の博士たちが星の光に導かれて幼子イエスの誕生を祝いにやってきます。ルカ福音書2章のイエスの物語では、羊飼いが野宿していると光輝く天使の群れが空に現れ、「天には栄光あれ、地には平和あれ」という大合唱が夜空にこだまし、光のテーマが展開されます。

ヨハネ福音書1章1~18節は、神を讃える讃歌のスタイルで書かれていますが、ヨハネ福音書の全体のテーマがここで前もって示されている「序論(プロローグ)」になっています。ヨハネ福音書の序論でも、光のテーマが展開されています。今日はヨハネ福音書の序論の主要な部分である1章1-5節と14節に光をあててみましょう。

    「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1:1-2)

「初めに」という言葉は、創世記の冒頭の天地創造の「初めに」(創世記1:1)と同じ言葉が使われています。すなわち「初めに神は天と地を創造された」の「初めに」をここでも用いているのです。ここでは、創世記では記されていない宇宙が創造される以前のことについて述べているのです。その中で、まず最初に2つの重要な点を指摘したいと思います。

第一に「言(ことば)」についてです。宇宙が創造される以前に、「言(ことば)があった」「言(ことば)は神と共にあった」と言われていますが、日本語の聖書では「言葉」という表現に「言の葉」の「葉」が落ちた「言」という漢字の一文字が充てられています。言葉の二面性を「言葉」と「言」を使い分けて表現しているのです。それはフランス語の「ラング」(言語体系)と「パロール」(言語体系を実際に用いて日常で用いられている言葉)という表現に似ています。創世記の天地創造で神が「光あれ」という文字通り「言葉」を発して天地創造をした際に、「言葉」の背後にある神の「意図や思想」を差す際に単なる「言葉」ではなく「言」という表現を用いて区別しているのです。

「言」は、ギリシア語では「ロゴス」という言葉が用いられています。しかし、「ロゴス」はただ単なる「言」や「意図や思想」ではなく、神とは異なる「パーソナリティ」(人格)を持った存在を表しているのです。ヨハネ福音書の「ロゴス」とは、ヨハネ福音書の後の展開で明らかにされますが、地上に降りてくる以前の天上の「キリスト」のことを指しているのです。すなわち、「言(ロゴスなるキリスト)は神であった」のです。

第二に、神と「ロゴス」なるキリストとの関係についてです。天上の神と「ロゴス」なるキリストとの関係は、「初めに神は言(ロゴス)と共にあった」と2度繰り返して強調しています。ここで用いられる「共に(ある)」という意味の前置詞(pros)は、直訳すると「~に向かって」「脇に」(towards, besides)という意味の前置詞です。つまり神とロゴスなるキリストは、顔と顔が「向かい合う」関係の中で、すなわち「対話してコミュニケーションを取り合う」関係の中で、天地創造の業を推し進めていったのです。私たちはこの3年間コロナ禍の中でオンライン授業などを経験しましたが、顔と顔を向かい合わせた対面のコミュニケーションの大切さを学びました。天上の世界での神とロゴスなるキリストの関係はまさにそのような関係であったのです。このような中で天地創造の業が執り行われたのです。次に天地創造の業が語られます。

    「万物は言(ロゴス)によって成った。成ったもので、言(ロゴス)によらずに成ったものは何一つなかった。
     言(ロゴス)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。命は人間を照らす光であった。
     光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:3-5)

言(ロゴス)なるキリストは、「万物」である森羅万象を創造しました。その中で重要なのは、「言(すなわちロゴスなるキリスト)の内に命があり」(1:4a)、この「命」は「人間を照らす光であった」(1:4b)ことです。すなわち、キリストの命である霊的な命は、人間の魂を照らす「真の光」なのです。「光は暗闇の中で輝いている」のです。

現代人の心を覆っている「闇」とか「暗闇」とは一体何でしょうか。19世紀の哲学者のキェルケゴールは、『不安の概念』で、「不安」に苛まされる現代人の心のありさまを見事に予言しました。また『死に至る病』では、希望のない絶望こそが、魂を死に至らせる病であることを言い当てました。現代人がしばしば陥りやすい「不安」と「絶望」こそが、心を覆っている闇であり暗闇なのです。5世紀の神学者のアウグスティヌスは、魂が神から離れていることが魂に「平安」が得られない原因であることを『告白』の冒頭で明らかにしています。 
  
    「言は、肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、
     恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)。

言(ロゴスなるキリスト)は肉体を取って人間の姿となり、人間の世界の間に「宿られた」(直訳、「テントを張った」)、すなわち地上を仮住まいとして、テントを張るようにして住まわれたのです。それは人々の心の深みにある暗闇の魂に光をもたらすためです。天上の神の世界は、神の光である栄光に満ち溢れた世界です(知恵の書7:25-26参照)。神の子キリストは、栄光に満ち溢れた神の姿を鏡で反射するかのように反映して光り輝いています(Ⅱコリント書4:4、6参照)。クリスマスは神の栄光を映し出したキリストの光が、不安と絶望に苛まされている闇の世界にも光が差し込んで輝き出す時です。神の子キリストがこの世界に誕生したように、神の恵みと真理の光が一人ひとりの心と魂を照らし出してくださいますように、心の底から希望と平安に満たされますように祈ります。(山田 耕太)