チャペルのひびき

神なき世界のただ中にあって平和の光を灯すこと 

チャペル・アワーにおいて、金耿昊先生(国際文化学科准教授)は、Keiwa Peace Project ~祈り・つながり・希望~(KPP)の皆さんと共にオンラインで参加された広島女学院大学主催の平和学習プログラムでの学びを分かちあってくださることから話を始められました。被害の甚大さから語られることの多い広島、けれども、広島は日本軍の大陸侵攻の拠点でもあったことを忘れてはならぬこと、被害者の視点だけでなく加害者としてのそれをも心にとどめることの大切さを教えてくださいました。自国民のみならず、他国の人々を理不尽な苦しみへと突き落とす戦争の悲惨さに、先生はまた、旧約聖書に描かれたヨブの物語を重ね合わされます。サタンにより(見方によっては神によって)、どこまでいっても答えの見いだせぬ苦しみの中へと突き落とされた義人ヨブ。悔い改めを勧める友人たちの説得に納得できぬヨブは、しまいには神に対して異議申し立ての挑戦状を突きつけてゆきます。物語の最後において、沈黙を破るようにして、神はヨブに語りかけ、ヨブは、神の前にひれ伏します。けれども、神の答えは、ヨブがなぜ、納得したかが分からぬような答えでもありました。広島から80年以上たった今でも、理不尽な苦しみとうめきが止むことはありません。神の沈黙(不在)の徴(しるし)が世界に溢れかえっています。それにもかかわらず「神いましたもう」ことの徴として、聖書はイエス・キリストの姿を指し示します。イエスは、神に見捨てられる仕方で十字架の闇の中に沈んでいかれた神の御子。十字架はこの世界に神などいないことの証であると共に、神なき世界に神の愛が深く貫徹された証でもあります。この方において、神などいないとしかいいえない世界のただ中にあって、神の愛の光を灯し、平和のための業に励むことが、私たちに求められているのでしょう。金先生は、お話の中で、「人間が始めたことは、人間が止めることもできる」とも語られました。希望を与えると共に、責任感を呼び覚ます言葉として心に刻みたく思います。(下田尾 治郎) 

Ⅰ.チャペル・アワー 
説教 「ヒロシマ・フクシマの苦難とヨブの叫び」  准教授 金耿昊 先生

Ⅱ.アッセンブリ・アワー
「キリスト教音楽」受講者による発表

<参加学生の感想>
感想1) チャペル・アワーにて、原爆の被害者の方々のお話やヨブ記のあらすじを聞き、神の存在は不幸を遠ざけ幸福をもたらしてくれるものではなく、自身に起こった不幸を乗り越え、生きることを幸せであると感じさせてくれるものなのではないかと思いました。ヨブや被爆者の方々は悪い行いをしたから辛い体験をしたのではなく、逆に神を思い強く正しく生きる機会を得た人々なのかもしれないと思いました。そういう意味で、本質的に恵まれている人々というのは金銭的に裕福であったり外見が美しい人々ではなく、むしろ乏しさや苦しさを受け入れ、自分の持っているものに感謝することができ、他者を思いやる豊かな心を持つ人のことをいうのだと感じました。自分も周囲の環境や人々の存在に感謝し、不幸を受け入れて生きていく人間でありたいです。
感想2) 今回の金先生のお話の中で神は本当にいるのかと思うほど理不尽な目に遭う時があるという言葉が印象に残りました。人間生きていれば誰しも感じたことのあるものだと思います。そして、そのことについて神を一心に信じるキリスト教徒である金先生が正面からお話されることに驚きました。しかし、先生はその理不尽は本当に神を頼らなくてはならないものなのか?というようにおっしゃっていました。私はその言葉にはっとさせられました。何でも神に解決してもらおうとするような受け身の姿勢ではなく、自分たちでできることはないかを考えるような能動的な姿勢でいなくてはならないのだと考えました。そして、そのような人にこそ神は祝福を与えてくださるのだと思います。この気づきを大切にしながらこれからの大学生活を過ごしていきたいと思います。
感想3) 理不尽なことを目の前にした時、自分たちの責任として考えるのではなくて神さまに責任を問いたくなりますが、人間が作り出すものは人間が止められるはずということを大事にし、理不尽なことにも、今ある一つひとつの問題にも向き合っていくことが必要なのだと思いました。そして、ヨブ記からは神さまを問うことも決して間違いではないということが分かりました。神さまに「なんでこの世界はこうなのか」と問う中で、自分とも向き合えるようになるのではないかと考えます。「キリスト教音楽」による受講者の皆さんによる発表もとてもすばらしくて、歌詞の力に加えて歌声の力も加わり、心に響きました。