学長室だより
2025年度入学式式辞(金山愛子学長)

式辞を述べる金山学長
聖書
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイによる福音書22章36-39節)
新入生の皆さん、敬和学園大学ご入学おめでとうございます。敬和学園大学は新発田市と聖籠町の両方に位置しています。新発田市には飯豊連峰を背に二王子岳がそびえ、美しい里山の風景が広がっています。この山並みから流れる加治川が赤谷を通り、新発田市郊外を潤して聖籠町で日本海に注ぎます。街中には新発田川が流れ、藩主溝口家の名園「清水園」を中心に風情のある城下町のたたずまいが見られます。聖籠町では実り豊かな果樹園が広がる一方で、東港エリアには先進的な工場が並びます。桜の開花も間近なこの豊かな地で大学生活を始めようとされる皆さんを、ここにご臨席賜りましたご来賓の皆さまと共に、学園関係者、教職員一同歓迎いたします。これまでお子さまを支えてこられましたご家族や関係者の皆さまにもお祝い申し上げます。大事なお子さまの教育を委ねられた責務の重さに気持ちを引き締めて教育に臨みます。
敬和学園大学の名前は、先ほど読まれました聖書の言葉から取られています。キリスト教で最も重要な掟「神を愛し、隣人を愛す」を、敬和学園高校初代校長の太田俊雄は「神を敬い、人と和す」と表現し、「敬和」と名付けました。本学では「愛する」という言葉を、「神を敬い、人に仕える」という具体的な行為に置き換えて建学の精神とし、校歌でもそのように歌っています。キリスト教精神に基づき一人ひとりの尊厳を大切にし、共に生きることに価値をおくこの大学で、自分の知識と能力、可能性を広げ、人間としてさらに大きく成長し、他者や社会に貢献する人を育てることが本学の目標です。
敬和学園大学は人文学部をもつリベラルアーツ・カレッジです。リベラルアーツ教育には、2500年ほど前の古代ギリシアの「自由人が身につけるべき教養」という意味合いがあります。それは複数の学問分野を関連づけて満遍なく学ぶことで、偏見から解放されて精神が自由な、円満な人格を備えた人を育てることができると考えた市民教育でした。「真実と偽りを見きわめる力」、これを「認知的卓越性」と呼びましょう。卓越とは「とびぬけて優れている」ということです。もう一つ、「善いことと悪いことをわきまえることのできる人格」、これを「人格的卓越性」と呼ぶことにします。リベラルアーツ教育が目指すのは、この二つです。すなわち「よき人間性を養おう、それには正しく考えることだ。まわりの世界のことも人間の世界のことも知ることだ。人間とその文化にも親しもうではないか」と古代ギリシア人は考えたのです。中世ヨーロッパで大学ができた時に、このリベラルアーツは法学や医学、神学を学ぶ前に必要な学びとして大学教育の中に組み込まれました。
リベラルアーツの学びは常に物事を多面的に考えることを促します。先入観を排除した思考の粘り強さと柔軟さ、視野の広さが問われます。さらに、考えるだけではなく、異なる意見に耳を傾けるだけでもなく、対話し本当のところはどうなのかと真実を模索していく努力を続けること―これを批判的・対話的思考と言います―により、民主的で多様性のあるコミュニティがつくられていきます。
私は山の中の小さな高校で学びましたが、その学校の校長は15歳の子どもに向かって「何のために勉強するか分かるかね?真理を探究するためなんだよ」と話してくれました。「真理」という言葉は、それまでほとんど耳にすることもありませんでしたが、その意味の深遠さを予感しながら何か心に重く残るものがあり、今になってもその言葉は私の記憶から消えません。そしてその校長は、「考えろ、考えろ」「君たちは考えていない」と口癖のように言っていました。そのころの私は、「考えてるよ、考えてるよ」と心の中で呟いていましたが、今にして思えば、何を考えるのかも分かっていなかったように思います。
皆さんはどうでしょうか?「考えろ」と言われて、自分は考えている方だと思いますか。考えるとはどういうことかを考えたことがありますか?ここで、自分の頭で考えるということをしなかった一人の男の話をしましょう。この人はスティーブンスという人で、イギリス人貴族の執事として仕えてきた人です。ノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロの小説の登場人物ですから、あくまでも架空の存在です。品格のある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、長年仕えてきた貴族が没落し、アメリカ人富豪の手に屋敷が渡った後で休暇をもらい短い旅に出ます。彼はこの旅の目的に、召使いがすっかり減ってしまった今のお屋敷を立て直すために、かつての女中頭を呼び戻すことを据えます。というのも、彼女はどうも幸せな結婚生活を送れているとは言えないような手紙を送ってきていたからです。
物語は、美しい田園風景の中をドライブする中で、1920年代から50年代半ばまでの自分の半生を振り返るスティーブンスの回想の形で語られます。執事は召使いのトップですから、召使いの人事や教育から、主人への忠誠、邸内で催される行事の采配まで、全ての責任をもつ立場にあります。彼は賓客を迎えるにふさわしい身なりをし、それにふさわしい標準的な英語を話します。一分の隙も見せないスティーブンスですが、彼は自分でも気づかないうちに真実とは異なることを読者に伝える「信用できない語り手」として研究者には理解されています。人の「記憶」をテーマにするカズオ・イシグロは、いかに人が巧妙にあるいは無意識的に記憶を塗り替えていくか、忘れていくかを抉り出しもします。この主人公について、カズオ・イシグロの言葉を借りて紹介しましょう。
「私が書き終えたばかりの物語は、イギリス人執事の話です。彼は誤った価値観によって人生を誤ったと悟りますが、すでに遅しです。執事として、人生最良の年月をナチ・シンパ[ナチスに共感し利用されてしまった]主人に捧げてきました。自分の人生なのに、自分で道徳的・政治的責任を負わずにきたことによって、人生をいわば無駄にしたことを深く悔やみます。それだけではありません。完璧な召使いであろうとするあまり、大切に思う1人の女性がいながら、それを愛し、それに愛されることを自らに禁じます。」
原稿を書き終えてからイシグロは何かが足りないと感じ、最後にある変更を加えたといいます。
「イギリス人執事には最後まで感情の防壁を維持してもらい、その防壁によって自分からも読者からも自分自身を隠しきってもらう…。書いている途中のどこかで、私は無意識にそう決めていたのだと思います。今やるべきことは、その無意識の決定を覆すことです。物語の終わりに近いどこかで、一瞬だけ覆そう。その一瞬を慎重に決め、まとった鎧に一筋のひび割れを起こさせよう。鎧の下にある大きくて痛ましい願いを、読者に垣間見てもらおう。」
スティーブンスは過去を回想する中で、自分が淡い想いを抱き、彼女も自分に好意を持っていることに気づきながら気づかないふりをしていた女中頭の女性との数々のやりとりを思い出します。自分が主人の命令にしたがってユダヤ人のメイドを解雇することを女中頭に伝えると、ヒットラーが台頭してきたこの時期にユダヤ人を解雇したら、そのメイドの運命がどうなるのか分かっているのかと激しく抗議されます。しかしスティーブンスは、この問題は自分たちが考えるべき問題ではなく、世間のことをよく分かっている主人が考えることだと言って、彼女の抗議をはねつけました。主人の催す重要会議にやってきた賓客の一人から、政治的な意見を求められた時に何も答えられなかったことも思い出します。他方で、車で田舎町を回りながらたどり着いたパブで、たまたま町の人たちが政治談議をしているのを見て、自分が政治的にも道徳的にも何ら意見を持つことをせず、結果的に責任逃れをしてきたことに気づきます。貴族かと見まごうばかりの身なりと話し方を身につけていても、何が真実で何が偽りか、何が善で何が悪かを考えることをしない、主人の言いなりの人生に誇りすら持っていたのでした。
かつての女中頭と再会した後の別れ際の場面で、今の生活に満足していると語りながらも、彼女は「そうはいっても、時にみじめになる瞬間がないわけではありません。・・・そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、よりよい人生を―例えば、ミスター・スティーブンス、あなたと一緒の人生を―考えたりするのです」と言います。それを聞いたスティーブンスは、「私の胸中にはある種の悲しみが喚起されておりました。いえ、いまさら隠す必要はありますまい。その瞬間、私の心は張り裂けんばかりに傷んでおりました」と告白します。読者は彼がこれまで鎧をまとい他者には絶対に見せることのなかった心の内の大きく痛ましい願いを垣間見せられるわけです。それでもこの場でスティーブンスは、目に涙を浮かべる女中頭に笑顔を浮かべて励ましの言葉を述べ、バスに乗せます。
政治的なことも道徳的な判断もせず、その結果社会に参加することも責任を取ることからも逃れてきたスティーブンスは、自分の心に防壁を築き、鎧をまとうことで自分の弱みを握られることもなかった半面、自分の願いを見失ってしまった、自分の人生を無駄にしてしまったという喪失感を味わいます。女中頭を呼び戻すための旅が、自らが失ったものを知る旅となったのです。
長くなりましたが、自分の人生なのに自分で考えないで生きてしまった男の物語を紹介しました。最後に付け加えますが、イシグロの筆はやさしく、その後の場面で執事スティーブンスは見ず知らずの人から癒しと励ましの言葉を聞くことができます。興味を持たれた方は、映画化もされた『日の名残り』というこの小説をぜひお読みください。
イシグロは、「執事は私たち人間のメタファー(比喩)だ」と言います。私たちは誰しも多かれ少なかれこのような面を持っているのです。「人間は考える葦である」というパスカルの言葉がありますが、葦のように自然界の中でか弱い存在であっても考えることができることに人間の尊厳があるという考えです。他方で、私は「人間は考えることが苦手だ」という言葉を読んだことがあります。問題だらけの世界を見ると後者の意見にも納得します。リベラルアーツはこのような複眼的な考え方―複数の視座をもつこと―を大切にします。
私たちは、少子化やグローバル化、気候変動が進む先行き不透明な変化の激しい時代を生きています。世界では戦争や紛争がやみません。ミャンマーでは大規模地震が起き、多くの人が犠牲になり苦しんでいる中で、軍は反対派勢力への空爆をやめません。しかし、今年は戦後80年でもあります。この80年間、日本はかろうじて戦争をしないできました。そこに希望があります。それこそ大きく痛ましい願いをもって核廃絶を訴え続けてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に昨年ノーベル平和賞が与えられ、その働きが世界で認知されました。そのことにも希望があります。若い皆さんはその存在だけでも希望になります。この時代と後に続く時代を平和で幸せなものとするために、考え、専門性を身につけて今よりも寛容で賢明な人となってください。敬和では「実践するリベラルアーツ」を合言葉に、地域活動や留学を通して視野を広げ、知識と経験をしっかり結び合わせた人、そして倫理観を持った人を育てることを目標としています。それが敬和の目指す全人教育です。一人ひとり目標は違います。バドミントン部は全国のチームとしのぎを削っていますが、この春卒業した女子学生は全日本学生選手権大会でベスト4に入りました。全国に800以上ある大学の女子バドミントン選手の中でのベスト4です。これは目標に向かって4年間がんばって生み出した成果です。学生一人ひとりが輝くために支援する学園でありたいと願っています。
今年度入学の皆さんが、英語文化コミュニケーション学科、国際文化学科、共生社会学科三学科体制最後の学年となります。来年度から敬和学園大学は「国際教養学科」一学科体制に変わります。皆さんの学科の学びは卒業までしっかりサポートしますので、よき友と出会い、目標を持って充実した学生生活を創り上げてください。繰り返しますが、リベラルアーツ教育の成果は「人」です。皆さん一人ひとりが本学の教育の成果となります。この4年間が人生の基盤を形成すると私は信じています。新入生の皆さんとご家族の上に神のよき導きと祝福を祈り、私の式辞といたします。
2025年4月4日
敬和学園大学長 金山愛子